第10話

 あれから、七年の月日が流れた。


 香織は今、地方の静かな町で暮らしている。かつて彼女を悩ませた都会の喧騒も、深夜のバーの湿った空気も、今では遠い前世の記憶のようだ。彼女の隣には、あの日差し出された「正解」を選んだ結果である、穏やかな日常がある。左手の薬指に光る指輪と、庭で揺れる洗濯物の匂い。それが、彼女が手に入れた「人間としての幸福」だった。


 あやかしの男と決別したあの夜、彼女はひどい高熱で一週間寝込んだ。目が覚めたとき、不思議と体は軽くなっていたが、代わりに右肩に触れられていた記憶だけが、ぽっかりと空白のように冷えていた。


 それ以来、彼には一度も会っていない。


 ある雨の午後、香織は買い物帰りにふと足を止めた。

 線路沿いの古い土手。雨に濡れた土と苔の匂いが、不意に鼻腔を抜ける。それは、あの地下室で、彼の隣に座るたびに感じていた、古の森の香りだった。


「……まだ、あそこにいるんですか」


 独り言は、雨音に溶けて消えた。

 彼にとっての七年など、瞬きの一回にも満たないだろう。彼は今もあの琥珀色の照明の下で、あるいは形を変えた都会の影で、誰かの孤独を黙って眺めているのかもしれない。彼女という「一晩の夢」を、記憶の隅に追いやることもなく、かといって慈しむこともなく、ただの風景として抱えながら。


 ふと、右の肩先に、懐かしい感覚が走った。

 傘を差しているはずなのに、そこだけが、氷の粒を押し当てられたように鋭く冷える。


 彼女は振り返らなかった。

 振り返れば、そこに琥珀色のコートを羽織った男が、当時と全く変わらぬ姿で立っているような気がしたからだ。あるいは、彼が約束通り、彼女の「名前」を呼ばないまま、ただ雨霧となって寄り添っているだけなのかもしれなかった。


「……さよなら」


 彼女は小さく微笑み、再び歩き出した。

 これから彼女は老い、やがて土に還る。彼はそれを見届けることもなく、けれど忘れることもなく、この世界が再び森に飲み込まれるその日まで、孤独な守護者として存在し続ける。


 それが、異なる時間を生きる二人が交わした、唯一の、そして最後の愛の形だった。


 空から降る雨は、彼女の頬を濡らし、土を湿らせ、やがて地下の深く、かつて彼が愛した「水の記憶」へと還っていく。琥珀色の残照は、彼女の心の奥底で、誰にも触れられない宝物のように、静かに輝き続けていた。



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琥珀の瞳と消えない雨音 しおん @sora_mj

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