第9話

 その夜、香織の心は完全に壊れていた。

 日中のプロポーズへの返答、積み上がる将来への不安、そして何より、隣に座りながら決して手に入らない「永遠」への渇望。バー『まほろば』の重い扉を開けたとき、彼女の瞳には、すでに決壊寸前の水が溜まっていた。


 男は、彼女の異変を察してか、今夜は一言も発さなかった。ただ、いつもよりさらに深い闇をその身に纏い、彫刻のように座っている。


「……ねえ。私を、そっちに連れて行ってよ」


 香織の声は、震える吐息となって男の耳元に届く。

 男はぴくりとも動かなかった。ただ、黄金色の瞳が、冷徹な警告を発するように輝きを増す。


「お前が何を言っているのか、わかっているのか。こちら側に足を踏み入れれば、お前は二度と、陽の光の下で笑うことはできんぞ」


「構わない。……このまま独りで老いて、あなたを忘れていくくらいなら、いっそ」


 彼女は、彼が頑なに守ってきた最後の一線を踏み越えた。

 カウンター越しに身を乗り出し、彼の冷たい首筋に両腕を回す。強く、爪が食い込むほどに抱きしめた。


 その瞬間、店内の空気が凍りついた。

 男の体温は、もはや「冷たい」という概念を超え、触れる端から彼女の生命力を削り取る、絶対零度の刃だった。香織の指先から、掌から、胸の鼓動から、温かな熱が急速に吸い出されていく。


「……愚かな。離せ」


 男の声は、地底から響く唸りのようだった。しかし、香織は力を緩めなかった。

 抱きしめれば抱きしめるほど、彼女の視界は白く霞み、意識は遠のいていく。それは死に似た快楽であり、同時に、彼が何百年も抱え続けてきた孤独の重みを、直接脳内に流し込まれるような苦痛でもあった。


 男の背後から、巨大な「野槌」の影が立ち昇る。

 蛇のような鱗が彼の肌を覆いかけ、その瞳の瞳孔が細く、鋭く裂けた。あやかしとしての本能が、目の前の瑞々しい生命を食い尽くせと叫んでいる。


「……あ、あ……」


 香織の口から、白く凍った息が漏れる。

 その時、男が力任せに彼女を突き放した。


 椅子から転げ落ちた香織は、激しく咳き込みながら床に伏した。奪われた熱は戻らず、指先は紫に変色し、震えが止まらない。男は立ち上がり、彼女を見下ろした。その表情は、怒りよりも深い、絶望的な悲しみに満ちていた。


「これがお前の望んだ結末か。愛ですらなく、ただの略奪だ」


 男の手は、今や黒い痣に覆われ、彼女から吸い取った熱に焼かれている。

 彼は一度だけ、床に倒れたままの彼女に手を伸ばしかけ――そして、そのまま何も言わずに店を出て行った。


 残されたのは、凍りついたグラスと、彼女が流した涙が床で小さく凍結した、真珠のような粒だけだった。

 二人の境界線は崩れたのではない。触れた瞬間に、互いを焼き尽くす炎となって、すべてを灰にしたのだ。



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