第8話
その日は、バーのマスターが急用で店を閉めていた。行き場を失った二人は、どちらからともなく、街で最も高い場所にある展望デッキへと向かった。営業時間を過ぎ、ひっそりと静まり返ったビルの屋上。あやかしである彼にとって、施錠された扉など、あってないようなものだった。
眼下には、無数の光の粒が川のように流れている。摩天楼の頂から見る都会は、あまりに美しく、そして残酷なまでに無機質だった。
「高い場所は、嫌いかと思っていた」
香織の問いに、男はコンクリートの縁に手をかけ、闇の底を見つめた。
「嫌いだよ。ここは空に近いのではない。土から最も遠いだけだ。……だが、こうして見下ろすと、この街がいかに脆い土台の上に築かれているかがよくわかる」
彼は細長い指を伸ばし、夜の空気を切り裂くように動かした。その指先が、遠くのネオンサインをなぞる。
「あと百年もすれば、この光の半分は消え、お前が知る人々は皆、土の下だ。さらに数百年経てば、この鉄骨も錆び果て、再び私の庭であった森が、この街を飲み込むだろう。……私は、それを見届ける」
男は淡々と語る。その隣で、香織は自分の心臓の鼓動を、ひどく騒がしく感じていた。彼が語る「数百年」という単位の中に、自分という存在は一片の塵ほども含まれていない。
「……寂しいですか、と。そう尋ねようとして、彼女は言葉を飲み込んだ。」
彼を寂しがらせているのは、他ならぬ自分という「限りある存在」なのだと気づいたからだ。いずれ消えゆく者の愛着は、残される者にとって、癒えない傷跡にしかならない。
男がふと、彼女を振り返った。黄金色の瞳が、夜の風を受けて妖しく揺れる。
「お前は、この街の一部として生きていけ。私のようになろうとは思うな。……お前の時間は、この光の明滅と同じだ。一瞬だからこそ、美しく、価値がある」
男はそう言うと、初めて彼女の頬に触れた。
指先はやはり死者のように冷たい。けれど、その冷たさが、熱を帯びた彼女の目尻からこぼれそうになった涙を、そっと凍らせて止めた。
二人の影は、足元のコンクリートに長く、別々の方向を向いて伸びている。
重なることのない二つの時間は、この摩天楼の頂で、ただ
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