第7話
病み上がりの体に、秋の気配を帯びた風は少し冷たすぎた。
香織のデスクには、一通の丁寧な手紙と、小さな菓子折りが置かれている。数年来の付き合いがある取引先の男性から、食事に誘われていた。彼は誠実で、同じ言語で話し、同じスピードで老いていく、申し分のない「正解」のような人だった。
その夜、香織はいつものバーへ向かう足を少しだけ躊躇わせた。
人間として生きるなら、あの琥珀色の瞳を見つめる夜を捨てなければならない。あやかしとの時間は、麻薬のように心地よいが、その先には何も残らないからだ。子供を育てることも、共に白髪を増やすことも、看取り合うことも。
結局、彼女は吸い寄せられるように地下の扉を開けた。
「……上の世界で、何かつまらぬ約束をしてきたな」
男は彼女が座る前から、その迷いを見抜いていた。
彼はグラスを傾けることもなく、ただ自身の影を弄んでいる。今日の彼の影は、いつもよりずっと濃く、重苦しく足元に沈んでいた。
「わかりますか」
「お前の纏う空気が、ひどく現実味を帯びている。家族、家、永劫の安寧――人間が欲しがる、あのひどく退屈で温かな匂いだ」
香織はカウンターに伏せた。彼にその話をすることは、彼を否定することに近い気がして、胸の奥がチリチリと焼ける。
「私、普通の幸せを選んだほうがいいんでしょうか。あなたは、私がここに来なくなっても、困りませんよね」
男は沈黙した。
バーに流れる古いジャズの調べだけが、残酷なほど正確に時間を刻んでいく。やがて、彼はゆっくりと、香織の頭上に手をかざした。触れはしない。けれど、その距離からは、いつも以上の冷気が降り注いでくる。
「困りはせん。……ただ、お前がその温かな泥に浸かり、私のことを忘却の彼方へ追いやるその日まで、私はここでこの酒を飲み続けるだけだ」
「忘れるわけないでしょう」
「忘れるのだ、人間は。それがお前たちの、唯一の生存戦略なのだから」
男の声は、どこか遠い崖の上から響いているように冷徹だった。
彼にとって、人間との出会いは、いくらでも繰り返される短い季節に過ぎない。けれど、その横顔が、一瞬だけひどく寂しげに歪んだのを、香織は見逃さなかった。
彼は彼女に「行くな」とは言わない。
彼女を愛しているからこそ、彼は永遠に、彼女の人生の『脇役』であり続けようとしているのだ。
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