第6話

 季節外れの風邪だったのか、それとも積み重なった心労が限界を超えたのか。香織は数日間、ワンルームのマンションで泥のような眠りに沈んでいた。カーテンを閉め切った室内は、昼も夜も区別がつかない。高熱に浮かされる意識の淵で、彼女はあの地下のバーに漂う、冷たい森の香りを求めていた。


 三日目の夜、ひときわ強い悪寒に震えて目を覚ます。乾燥した喉で喘ぐ彼女の耳に、規則正しい音が届いた。


 ――コン、コン。


 それは玄関のチャイムではなく、窓ガラスを叩く音だった。ここはマンションの四階だ。恐怖よりも先に、ある予感が彼女を突き動かす。ふらつく足取りで窓辺へ這い寄り、カーテンを細く開けた。


 窓の外、細いベランダの手すりに、あの男が立っていた。

 琥珀色のコートが夜風にたなびき、金色の瞳が暗闇の中で鋭く発光している。


「……バカな女だ。これほど脆い器で、よくぞ今日まで生きてこられた」


 窓越しに届く声は低く、しかし驚くほど明瞭に脳裏に響く。香織が窓を開けようと手をかけると、男は険しい顔でそれを制した。


「開けるな。今の私には、お前の熱を奪うすべしかない。触れれば、その細い命の灯を吸い尽くしてしまう」


 あやかしにとって、弱った人間はあまりに過食な獲物であり、同時に守るべき脆すぎる硝子細工だった。男は窓ガラスに、その長い指先をぴたりと押し当てる。香織も内側から、同じ場所に掌を重ねた。


 厚いガラスを一枚隔てて、二人の体温が対峙する。

 香織の掌には、ガラスを通して男の苛烈なまでの冷気が伝わってきた。一方で、男の指先には、彼女の命が必死に燃えようとする熱が、かすかな振動となって伝わっている。


「……帰ってください。こんなところ、誰かに見られたら……」


「誰も見てはいない。今の私は、ただの夜霧と同じだ」


 男はそのまま、朝陽が東の空を白ませるまで、窓の外に佇み続けた。

 香織は、窓辺に背を預けて床に座り込み、ガラス越しの冷気を感じながら再び深い眠りに落ちた。男が発する冷たさは、不思議と解熱剤よりも優しく彼女の脳を鎮めていく。


 目が覚めたとき、窓の外にはもう誰もいなかった。

 ただ、結露したガラスの表面に、人間のものではない、長く細い指の跡が、琥珀色の朝光を浴びて宝石のように残っていた。



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