第5話

 八月の半ば、都会の熱気は飽和状態に達していた。街のいたるところで揺らめく陽炎は、現世うつしよ隠世かくりよの境界を融解させていく。


 その夜、バー『まほろば』へ続く階段の踊り場には、見たこともない奇妙な蛾が群れていた。香織が店の扉を開けると、いつもの琥珀色の空間が、どこか遠くの寺院のような、焦げた線香の匂いに満たされていることに気づく。


 彼はいつもの席にいた。しかし、その傍らには、見慣れぬ先客がいた。

 それは人の形を保っているものの、顔の部分が霧のようにぼやけ、装束は平安の時代を思わせる古びたものだった。


「……連れ、ですか?」


 香織が声をかけると、その霧のような影は一度だけ彼女を振り返り、そのままスッと天井の闇へ消えていった。


「かつての同胞だ。この時期は、道に迷った古い連中が、よく私を迎えに来る」


 男の声は、いつも以上に掠れていた。彼の瞳の金色は濁り、まるで古い真鍮のように鈍く光っている。


「帰りたくないんですか? あなたがいた、本当の山へ」


 香織の問いに、男はグラスの中に溜まった水滴を指でなぞった。


「私の山は、もうこの街の下に埋まっている。帰る場所などどこにもない。……それに、私はこの街の『淀み』に慣れすぎてしまった」


 男は窓の外、高層ビルの群れを見つめた。お盆の時期、多くの人間が故郷へ帰り、街から活気が失われる。その代わりに、帰る場所を失ったあやかしや、死者の想念が、浮き彫りになったコンクリートの骨組みにまとわりつく。


 彼はその「寂しさ」を喰らって、かろうじてこの地に繋ぎ止められているのだ。


「お前も、いずれはあちら側へ行く。迎えが来るその日まで、この腐った街で必死に火を灯し続けるがいい。……私は、その火が消える瞬間を見守る義務がある」


 男はそう言うと、初めて自分から彼女の手首に触れた。

 指先から伝わってくるのは、骨まで凍てつくような孤独の重みだった。けれど香織には、その冷たさが、街の熱狂から自分を匿ってくれる唯一の救いに感じられた。


 店を一歩出れば、そこには送り火の煙が夜空に溶けていくのが見えた。

 いつか自分もあの煙になる。その時、彼は変わらぬ姿で、また誰かの孤独を隣で眺めているのだろうか。


 香織は、握られた手首に残る冷たい熱を、忘れないように強く心に刻んだ。



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