第4話
雨は上がり、街には湿り気を帯びた生暖かい風が吹いていた。
バーの止まり木に座る香織の心は、先夜の告白からずっと、凪ぐことのない波に揺られている。隣に座る男――かつての山の主であったという「彼」への関心は、もはや好奇心を超え、名状しがたい愛着へと形を変えつつあった。
「あなたのことを、何て呼べばいいですか」
香織がグラスを見つめたまま呟くと、氷がカランと音を立てて崩れた。
出会ってから何度目かの夜。彼女は未だに、彼の名を知らない。
「名か。……無意味だな。私には、お前たちが認識できるような固有名などない。かつては山の名で呼ばれ、あるいは畏怖を込めて異形で呼ばれた。それだけだ」
「それでも、呼びかけたいんです。私にとって、あなたはもう『誰か』ではないから」
男は細長い指でグラスの縁をなぞった。その指先から、微かな冷気がカウンターに伝わる。
彼は黄金色の瞳を向けた。そこには、いつもの拒絶よりも少しだけ深い、静かな思索の光が宿っている。
「名を与えることは、魂を縛ることだ」
男の声は、深い森の奥で響く
「お前が私に名をつけ、私がそれに応じれば、私はお前の世界の住人になってしまう。それは、お前という短い命の環に、私の永遠を無理やり引き摺り込むことだ。……逆もまた然り。私が、お前の名を呼ぶこともない」
香織は、はっと息を呑んだ。
彼が徹底して距離を保ち、言葉を削ぎ落としてきた理由。それは冷淡さゆえではなく、彼女を「あちら側」へ行かせないための、痛切なまでの防壁だったのだ。
もし彼が彼女の名を呼び、彼女がそれに応えれば。
その瞬間に、彼女は人間としての平穏な時間を失い、彼と同じ孤独な永劫の淵に立たされることになる。
「……私のこと、そんなに大切に思ってくれているんですね」
その言葉に、男は初めて視線を逸らした。
「……傲慢な女だ。私はただ、自分の食い扶持が早々に壊れるのを嫌っているだけだ」
ぶっきらぼうな返答とは裏腹に、男の影がわずかに揺れた。
香織は自分の名前を名乗るのをやめた。その代わりに、そっと自分の手をカウンターに置く。男の冷たい指先との距離は、わずか数センチメートル。
その隙間こそが、二人の生きる世界の絶対的な距離であり、同時に、今この瞬間を共有している唯一の証でもあった。
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