第2話

 週の半ば、仕事は最悪の局面を迎えていた。クライアントからの理不尽な差し戻しと、積み重なる事務ミス。深夜、オフィスを出た香織の足取りは、まるで鉛の靴を履いているかのように重かった。地下鉄の階段を下りる気力すらなく、彼女は吸い寄せられるように、再びあの地下の扉を叩いた。


 店内は前回よりもさらに静まり返っていた。そして、あの席にはやはり、琥珀色のコートを纏った男が座っている。


 彼女は挨拶をする気力もなく、倒れ込むように隣の席へ沈んだ。何も注文する前に、マスターが静かにチェリー入りのカクテルを差し出す。アルコールの刺激が、ささくれ立った神経をなぞる。


 隣の男は、今夜も動かない。ただ、彼女が吐き出した溜息の重さを測るように、わずかに視線を落としている。


「……今日は、何も聞かないでください」


 絞り出すような彼女の声に、男は小さく鼻で笑った。


「聞くまでもない。お前の背に、どす黒い泥が張り付いている。この街の澱みが、お前を食い潰そうとしているな」


 男がゆっくりと手を伸ばした。香織は避けることもできなかった。その指先が、彼女の右肩に触れる。


 瞬間、凍りつくような冷たさが走った。それは冬の川の底に触れたような、鋭利で容赦のない冷気だ。しかし、その冷たさが通過した場所から、嘘のように重苦しい感覚が消えていく。肩にのしかかっていた誰かの悪意や、焦燥感、自分への嫌悪が、男の指先へと吸い込まれていくのがわかった。


「……冷たい。でも、すごく楽に……」


「我らのような存在にとって、人間の負の感情は毒にも薬にもなる。今夜のお前は、いささか毒が強すぎるがな」


 男の指先が、彼女のうなじから肩甲骨にかけて、ゆっくりと、愛おしむような、あるいは獲物を品定めするような手つきで滑る。香織は、その冷たさに抗うどころか、もっと深く触れてほしいと願っている自分に驚いていた。


 ふと、男の手元を見ると、彼の白い肌に黒い痣のような模様が浮かび上がっていた。それは彼女の絶望を吸い取った代償であるかのように、男の袖口へと這い上がっていく。


「それは……私のせいで?」


「案ずるな。私には、これを浄化する時間が腐るほどある」


 男は手を離すと、残っていた酒を一気に飲み干した。

 指先が離れた瞬間、香織は耐え難い喪失感に襲われた。体は軽くなったはずなのに、心には彼にしか埋められない空白が、ぽっかりと空いてしまった。


 男は立ち上がり、襟を立てた。その背中はどこか遠く、触れてはいけない境界線を明確に引いている。


「少しは眠れるだろう。……人間、眠らねば正気は保てんぞ」


 去り際に男が残した言葉は、やはり突き放すようでいて、深い慈悲を含んでいた。

 香織は、自分の肩に残った、消えゆく冷たさを抱きしめるようにして、しばらく動けずにいた。



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