琥珀の瞳と消えない雨音
しおん
第1話
深夜二時の都会は、死にきれない熱気がアスファルトから這い出し、湿った夜風がビルの隙間を泳いでいく。二十八歳の彼女、香織にとって、この時間は一日の終わりではなく、削り取られた自尊心を繋ぎ合わせるための空白だった。
地下へと続く階段は、湿ったコンクリートの匂いがする。重い扉を押し開けた先にあるバー『まほろば』は、時代に取り残されたような琥珀色の照明に満たされていた。客はまばらで、氷がグラスに当たる硬質な音だけが、沈黙の濃度を深めている。
彼女はいつものように、カウンターの端から二番目の席に腰を下ろした。バッグを隣の空席に置こうとして、その手が止まる。
一番端の席に、先客がいた。
古い琥珀色のコートを羽織った男だった。流行とは無縁の、どこか時代錯誤な仕立ての良さを感じさせる。男はただ、目の前のグラスを見つめていた。中身は琥珀色の液体だが、氷はとうに溶け去り、水面は鏡のように静止している。
彼女が注文したジンの鋭い香りが鼻腔を突く。それを一口含んだとき、ふと、隣から不思議な匂いが流れてきた。それは排気ガスや香水の混じった街の匂いではない。雨上がりの深い森、濡れた苔、そして何百年もそこに鎮座している巨石のような、冷たくて重厚な残香だった。
男がゆっくりと顔を向けた。
その瞳を見た瞬間、彼女は呼吸の仕方を忘れた。街灯を反射する猫の目よりも深く、底知れない金色の光彩。それは知性を持った獣のそれであり、明らかにこの街の住人が持つべき光ではなかった。
「……ひどい顔だ」
男の第一声は、低く、古いチェロの弦を弾いたような響きだった。
「わかってます。鏡を見る余裕もなかったので」
自嘲気味に返した彼女の言葉を、男は否定も肯定もしない。ただ、長い指先で自分のグラスの縁をなぞった。その指が動くたび、彼女の周囲の空気が少しずつ澄んでいくような錯覚に陥る。都会の喧騒や、上司からの理不尽な叱責、終わりの見えないタスク――それらが、この男の存在感によって、ひどく矮小なものに書き換えられていく。
男は再び視線をグラスに戻し、独り言のようにつぶやいた。
「土の匂いを忘れた女が、鉄の箱の中で魂を削っている。滑稽なほどに、人間らしい」
その言葉には棘があったが、不思議と不快ではなかった。むしろ、誰も踏み込めなかった彼女の孤独の芯を、冷たい指先で的確に指摘されたような安堵感があった。
彼女は何も言い返さず、ただジンを煽った。
男の傍らにある影が、照明の加減か、一瞬だけ蛇のように長く、太く、うねったように見えた。だが、瞬きをすればそこにはただ、孤独な男の端正なシルエットが落ちているだけだ。
午前三時を告げる時計の音が、地下室に重く響く。
彼女が席を立とうとしたとき、男は一度もこちらを見ないまま、静かに告げた。
「明日も雨だ。……泥に足を掬われぬよう、精々気を引き締めて歩くがいい」
それは、この街で受けるどんな社交辞令よりも、彼女の心に深く突き刺さった。
店を出て見上げた空には、星ひとつない。けれど、背後に残してきたあの琥珀色の瞳の残像が、暗い夜道の足元をかすかに照らしているような気がした。
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