第9話:悲しい夢

マヨイの部屋から出てきたミッカは、そのまま廊下を突き当たりまで進むと、初めてダイニングに繋がるドアを開けた。

「わあ……」

中を見たミッカは、思わず感嘆の声を漏らした。そこは広々としたリビングダイニングだった。開放的なダイニングキッチンに、テーブルにはセットの椅子が4脚。リビングには部屋に合わせた座り心地の良さそうなソファセットにローテーブルがあった。ソファは、ベッドの代わりにしたら足を伸ばして眠れそうなほど大きい。クッションも置いてある。ソファの向かいには大きな窓があり、カーテンが閉まっていたので、ミッカは近付いてそれを開けた。朝の日差しが入って部屋が明るくなり、暖かくて気持ちが良い。窓の前で伸びをしてから、ミッカはそっと、ソファに近寄ってちょこんと座ってみた。

(ふかふかだ……!)

柔らかいのに体が沈み過ぎない、素晴らしい座り心地だった。これなら何時間でも座り続けていられる気がする。このソファに座って本を読んでみたいなと、ミッカは考えた。

ソファから立ち上がって、今度はダイニングの方へ。テーブルの上には、ダーナが用意してくれていたという朝食が並んでいた。小さく切り分けてくれてあるサンドイッチに、きのこのサラダ。空のスープ皿とグラス。その下にメモが置いてあることに気が付いて、読んでみた。

――ミッカちゃんへ

鍋にスープがあるので、温め直して飲んでくださいね。飲み物は、冷蔵庫に冷たいお茶かお水かミルク。冷蔵庫にはデザートのフルーツもありますよ!

ダーナより――

手書きのとても読みやすい字で、そう書いてあった。ミッカは嬉しくなって目を輝かせると、キッチンの方へ行って、鍋のスープを確認してコンロに火をつけて火加減を見てから、次は冷蔵庫の前に行く。人の家の冷蔵庫を開けるのは少しためらいがあったが、メモに指示があったので、思い切って開けてみた。中は綺麗に整理されていて、メモにあった飲み物とデザートもすぐに見付かった。ミッカは冷たいお茶を選んで取り出し、デザートの小分けにされた果物が入った小さなお皿と一緒にテーブルに持ってきて置いた。スープ皿を持ってコンロに戻ると、鍋をお玉で掻き回し、湯気が出てきてしばらく経ったところで火を止めて、お皿に注いだ。たっぷりの野菜が煮込まれたミネストローネだった。昨日の夕食にも出てきたが、その味は絶品で、とても美味しかった。また食べられるなんて嬉しい!とミッカは心の中で小躍りしたい程はしゃいでいた。トマトベースの良い匂いがする。

全ての準備を整えて、ミッカは席に着いた。朝からこんなごちそうを食べていいのかな?なんて思ってしまうほど、充実した献立だった。神様とダーナとマヨイに感謝をしながら手を合わせて、お祈りの後にいただきますと呟く。まずはサンドイッチをひとつ、摘んで食べてみた。

(……美味しい!!)

サンドイッチには、たまごサラダと野菜が挟まっていた。味付けも丁度よく、本当に美味しい。ひとつ食べれば、もうひとつ食べたくなる。そんな美味しさだった。ダーナさんって本当にお料理上手だなあ、と、ミッカは密かに憧れた。

サラダもスープも美味しくて、幸せな味がする。デザートの果物まで全て食べ終わると、ミッカはまた手を合わせて、ごちそうさまでした!と、今度ははっきりと声に出して言った。少な過ぎず多過ぎず、盛り付けの量まで完璧な、素晴らしい朝食だった。

ミッカは満足気にうっとりとため息を吐くと、少しの間食休みをしてから、立ち上がって使った皿を流しに持って行った。使い終わった食器や鍋を綺麗に洗い終わると、さてこれから何をしようかな?と考えた。掃除や洗濯など、出来れば朝の家事を済ませたかったが、掃除道具がどこにあるか分からなかったし、洗濯物は勝手に触ったら嫌がられるかもしれない。

うーん、と考えて、とりあえずミッカは自分の寝室に戻ってみた。この部屋にあるものなら自由にしていいと言われたので、カーテンを開けながら掃除道具を探してみたが、羽根はたきしか見付からなかった。その他の掃除道具はこの部屋の中には無いようだ。とりあえず窓を開け、はたきを持って、ほこりが溜まりそうな場所を払ってみたが、ダーナが定期的に掃除してくれていたのだろうか、ほとんどほこりは出てこなかった。それでも本棚と本の隙間や、本の背表紙などを重点的に払う。お昼になってダーナさんが来たら、家事をするのに必要なことをいろいろ習おう……と部屋中をはたきで払いながら、ミッカは思った。


開けてあった窓を閉めて、そういえば日がある内に寝ておけとマヨイに言われていたことを思い出し、ダーナが来るまでの間、しばらく仮眠を取ることにした。ヘアゴムを外して髪を解いた後、掛けていた眼鏡を外し、ベッドサイドテーブルの上のケースにしまう。こんな時間から仮眠を取ることなど滅多に無かったので、上手く寝付けるか心配だったが、極上の寝具の寝心地の良さも手伝って、ミッカは横になってからすぐにすやすやと寝息を立て始めた。


――――


真っ白な世界だ。またここに来た。足元がふわふわする。立っているのか浮いているのか、よく分からない。ミッカはキョロキョロと辺りを見回してみるが、視界には、白くてモヤモヤとした深く濃い霧しか映らない。

「おい」

「ひゃいっ!?」

突然背後から声を掛けられて、驚いたミッカは体をビクッと震わせて、素っ頓狂な声を上げてしまった。恐る恐る振り返ると、見慣れた姿があった。

「マヨイ様!」

その姿を見て、ミッカが安心したように名前を呼んで近寄る。この世界で、初めて白い霧以外の何かを見た気がする。

「へぇ。オレの姿が、そう見えるか」

「え?あの……マヨイ様では……ないのですか?」

「いや。お前の目からそう見えるのなら、それでいい。好きに呼べ」

ミッカには、その男性がマヨイにしか見えなかった。同じ声に、ほとんど同じ姿。髪色が少し明るく見えるのは、この真っ白な世界ならではの見え方なのだろうか。整った顔立ちに、キリッとした眉、美しい深い赤色の両目。背格好も着ている服も変わらない。やはり、目の前のこの男性はマヨイにしか見えない。

「マヨイ様、私……あの……」

「猫を」

「はい?」

ミッカがこの場でどう話し掛けようか言いあぐねていると、相手の方から話し掛けてきてくれた。軽く足を開いて立ち、腕を組んでいて、ミッカのことを見下すように首を少し上げて傾けていた。

「猫を庇って、夜の森に入ったんだって?」

「え?あ、はい……そうなんです。子猫が、助けを求めて必死に鳴いてて……だから」

「バカかお前は」

「……えっ!」

思いがけない言葉を目の前の相手から投げかけられて、ミッカは驚いた。マヨイのものとは思えない程に、冷酷な声だった。

「バカか、と言ったんだ。バカなのか?お前は。たかが猫一匹の為に、自分の命まで落としてもいいと思ってたのか?」

「思ってません!でも!見過ごせなかったんです!」

「その結果、どうなった!?」

「えっ……?」

ミッカから言い返されたのが我慢ならないのか、相手は急に腹を立てて声を荒らげ始めた。

「オレに迷惑を掛けた!わざわざ助けてやったから、お前は今、こうしてのうのうと生きてるが!オレは忘れて去れと言ったのに、お前はまんまとあの家に転がり込んだ!迷惑だ!」

「あの、そんな……ごめんなさい、私……」

「お前なんか、あの森で……魔物に食われてくたばっちまえばよかったのに」

「ひどい!」

「酷いのはどっちだ!どうしてこのオレが、お前なんかと一緒に暮らさなきゃなんねぇんだ!お前はいつも、いつもそうやってこっちに関わってくる!鬱陶しい!」

「いつも……?」

「あの家から追い出してやりてぇ、今すぐにでも。こんなバカとは、1秒だって一緒にいたくねぇからな」

「そんな……私、あの……」

「その顔見てるだけで虫唾が走る」

吐き捨てるようにそう言われて、ミッカは目に涙を浮かべた。マヨイの顔と声で冷たく罵られるのは、心臓に突き刺さるような感覚がある。血は流れないのに、とても痛くて、怖くて、恐ろしくなる。

「なあ、今からでも遅くない。あの家から出て行ってくれないか?出て行って、二度とこっちに関わらないと言うなら、お前のことを……そうだな、見直してやってもいい」

普段のマヨイからは想像もつかないような、ニヤニヤとした笑い顔で、相手はそう言った。ミッカにとっては、とても嫌な印象に映る顔と声だった。

「隣に……」

「あァ?」

「私の、隣に……いたいと……。マヨイ様は、そう……言ってくださったではありませんか……。あの言葉は……嘘、だったのですか……?」

「あんな言葉を信じる方がどうかしている」

「そんな……!」

突き放すような声と言い方だった。血の気が引くような感覚。ショックを受けて絶句し、真っ青になっているミッカの顔を見て、ニヤニヤと笑いながら、相手が二の矢を継ぐ。

「お前なんか……」

そこから先は、急に相手の声が聞こえなくなった。相手は何か喋っているように口を動かし続けているから、それが聞こえてこないのはおかしい。

『いいよ、もう。あんな汚い言葉、キミはこれ以上聞かなくても』

「誰……?」

相手の声が聞こえなくなった代わりに、今度は別人の声が急に聞こえてきた。少し高い男性の声のようにも聞こえるし、低い女性の声のようにも聞こえる。そんな、どこか中性的な声だった。穏やかな口調は、聞いていると心が落ち着き、安らぐようだ。ただ、どこから聞こえてくるのか、よく分からない。

『ごめんね。キミは、ボクのせいであの人にあんなに嫌われてるんだ。キミは何も悪くないのにね』

「あなたは、誰ですか?」

『ボクは……そうだね、キミ自身かな?』

「私……?」

『まあ、キミはまだボクのこと思い出せないみたいだけど。今はそれでも構わないよ。でもあの人の言葉を真に受けて、キミの心が傷付いていくのは見過ごせなかった』

「マヨイ様、は……本当は、……本当は、私のことを……」

『この恋を、疑ってはいけない』

「え……?」

『この愛を、信じ切らなければいけない』

「この、言葉は……」

『疑わないで。信じてあげて。キミ自身と、マヨイくんのこと……おっと』

「おい!こら!」

「きゃあ!!」

目の前の相手が激昂して、ミッカの腕に掴みかかろうと手を上げた。

「何自分で耳塞いで独り言ブツブツ言ってんだ!せっかくこのオレがわざわざ話し掛けてやってるのに無視しやがって!!」

「いやぁ!!」

言われるまで気が付かなかったが、ミッカは自分で自分の耳を塞いでいたようだった。だから相手の声が急に聞こえなくなったらしい。

そのまま殴られてもおかしくないような勢いだったので、ミッカは悲鳴を上げながら屈んで頭を低くし、手で隠すようにして身を守った。さっきまでの安心させてくれるような謎の声は、もうすっかり聞こえなくなってしまった。目に涙を浮かべて、身を縮めて震えていたが、意外なことに相手はそれ以上何もしてこなかった。乱暴されるどころか、触れることすらされなかった。恐る恐る顔を上げると、相手は立ったままで、やはりミッカを見下すような、軽蔑するような目で見ていた。

「なっさけねぇ姿だな」

その顔を見なくたって、ニヤニヤした表情が容易に想像出来るような。そんなバカにし切った声と口調だった。

「弱くて、空回ってばかりで、守ってもらうだけの、情けない、頭の悪い奴。誰がお前なんかを好きになるんだ?自惚れも大概にしろ」

「自惚れ……」

「少なくとも、オレは絶対に、お前のことを……好きになったりなんか、しない」

そう断言すると、踵を返し、相手はこの場から去ったようだ。ミッカ以外の他には誰も、そこにはいなくなった。謎の声も、あれからもう聞こえない。

「マヨイ様……」

ミッカはゆっくりと立ち上がると、今にもこぼれ落ちそうなほど目に涙を浮かべたまま、その名を呟いて目を閉じた。


――――


「……う」

ミッカが仮眠から目を覚ます。何か夢を見ていたような気がするが、目を覚ました瞬間に、砂粒が手からこぼれ落ちるみたいに記憶から消えていき、よく思い出せなくなった。ただ、何かとても悲しい夢だったようで、目には涙が溜まっていて、まばたきとともにポロポロとこぼれ落ちていった。だけど何故泣いているのか、夢の内容はどうしても思い出せない。体を起こして、手でそれを拭う。心臓がドキドキしている。悲しくて、怖い夢だったのだろうか。

(うう、なんか疲れた……)

寝たのに疲れているなんて、効率が悪い。時間を確認すると、寝始めてから1時間も経っていなかった。ダーナが来るまでまだ時間がある。

(もう少し寝とこ……)

大きなあくびをしてから、ミッカはまた横になって毛布を被ると、目を閉じてすぐに深い眠りへと落ちていった。今度は夢を見なかった。

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