第3話:あなたのお名前は
気が付くと、少女は真っ白な世界にいた。どこを見渡しても、深く濃い霧が掛かっているかのようにモヤモヤとした真っ白な視界が広がっていて、何も見えない。ふわふわとした雲の上を歩くような感覚で、足元がおぼつかない。本当に地を踏んでいるのか怪しい。もしかしたら浮いているのかもしれない。どこだろう、ここは。天国への入口だろうか。
「遂に会っちまったなぁ」
誰かの声がして、振り向く。でも姿は見えないようだ。影すら見えない。
「誰…?」
声が聞こえてきた方へ、白い霧の中に向かって問い掛けてみた。
「わざわざ助けてやったのに、命の恩人の声を忘れるとは無礼なヤツだな」
「命の恩人……」
少女は小首を傾げて思い返す。
「……森で助けてくれた方ですか?」
「不本意だったがな」
「ああ!その節は本当に……ありがとうございました!」
少女は、声のする方へ深々と頭を下げた。自分から見えていない相手が、自分のことを見えているかどうか怪しかったが、頭を下げずにはいられなかった。
「よせ、虫酸が走る」
「え?」
「お前のその、いかにも自分はいい子ですって媚びた態度が、オレはいつも気に入らねぇんだ」
「ええ……?」
「悪いこたぁ言わねぇ、お前はもう、これ以上関わるな」
「関わるって、何に……?」
「忘れろ、忘れてどっか行け」
「で、でも……」
「忘れろ」
「…………」
「さもないと、これからお前にとって良くないことが起こるだろう。オレが、お前を……不幸にするんだ」
預言者だろうか?少女は困った顔で小首を傾げたまま、何も言えずにいた。
「いいか、忠告はしたからな」
それだけ言うと、声の主はその場を去ったようだ。姿は見えないけど、立ち去るような気配があった。それから少女がいくら声を掛けても、もう返事が返ってくることは無かった。
「……」
少女は黙り込んで、足を動かす気にもなれず、その場に突っ立ったままでいた。
――――
「うっ……」
目を覚ますと、見知らぬ天井があった。辺りを見回すと、いつもの自分の部屋の硬くて狭い2段ベッドとは全く違う、とても大きくてふかふかと柔らかいベッドの上にひとりで寝ているようだった。枕は丁度いい硬さと高さ。掛かっている毛布はぬいぐるみを撫でているかのようなふわふわの手触りで暖かい。何もかもが自分好みのベッドだった。このベッドの上なら何時間だって眠れてしまうかもしれない。あまりにも寝心地が良いからつい二度寝したくなるが、どれだけ寝ていたのだろう、もう眠気は無いようだ。だけど体を起こすことも難しい。体中に重石が乗っているかのように怠く、上手く力が入らない。誰かの補助が無いと、上半身を起こすことすら難しそうだ。
しかしここはどこだろう。体が起こせないと、部屋の様子もよく分からない。森の中で魔物に襲われて、それで……えっと…うーん、途中から記憶が曖昧だ。
少女が目を覚ます前の記憶を辿っていると、ドアからノックが聞こえてきて、それに返事をする前に、ノックをしたであろう人物が部屋の中に入ってきた。ベッドに近寄って、少女の顔を覗き込む。40〜50代くらいに見える、少しふくよかで、優しそうな顔をした女性だった。エプロンを身につけている。
「あーら!目を覚ましたの!よかったねえ!」
そう言って女性はニコッと笑ってくれた。初対面だと思うのに、この人の笑顔を見ていると、何だかホッとする。
「あなたはねぇ、ほとんど丸一日眠ってたのよお!目を覚まさないんじゃないかって心配してねえ」
そう言って、女性は部屋の灯りをつけると、部屋を横切って窓のカーテンを閉めた。カーテンを閉める前の窓の外は、恐らく夕焼けで赤く染っていた。時間の感覚が失われているので、朝焼けの可能性もあるが。
「気分はどーお?」
「あの……はい、たくさん眠れたから……頭はスッキリしています」
「そーお!よかったわあ!体は起こせるの?起こしたい?手伝いましょうか?」
「は、はい…上半身を起こしたいです。お願いします」
「任せてちょうだい!」
女性はまたニコッと笑うと、少女の背中に手を回して、ゆっくりと体を起こすのを手伝ってくれた。背中とベッドの間にクッションを挟んでくれて、背もたれ代わりにしてくれた。
「苦しくなぁい?平気?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
「うん、よかったわ!ねえあなた、お腹は空いてるかしら?食欲はあるの?」
「食欲…」
問われた途端、自分より先にお腹がくぅーっと小さく鳴って返事をした。少女は恥ずかしくなってお腹を両手で押さえて赤くなるが、女性は特に気にしないでいてくれたようだ。
「あーら、そう!よかったわ!今温かいスープを作って持ってきてあげるから、待っててちょうだいね!」
「あ、はい!ありがとうございます」
「日も落ちたし、そろそろ若様も起きてくる頃でしょう。心配してたのよぉ、あなたのこと、とってもね!」
「若様……?」
「あらぁ、覚えてないのお!若様は、この家の主よお!若旦那様ね!大旦那様がいる訳じゃないんだけど、あの通りお若い見た目じゃない?だから若様ね!それでぇ、アタシは通いの家政婦さん!ダーナっていうのよ、よろしくねぇ!」
「ダーナさん…よろしくお願いします!私は……」
少女が名乗ろうとした瞬間、ドアの外からバタバタと誰かが慌てて駆け寄ってくる音が聞こえてきて、そちらの方を見る。間もなくノックが聞こえて、ダーナがどうぞと返事をすると、その人物はドアを開け、駆け寄ってきたことなど感じさせないほど落ち着き払った様子で中に入ってきた。ちょっと面白い。
「ああ!噂をすれば若様!お嬢さん、目を覚まされましたよ!」
「そうか!……ああ、よかった……!目が覚めてくれて、本当に……」
「ご心配でしたものねえ!本当によかったわあ!じゃあアタシは、お食事のご用意をしてきますから!」
ダーナはそう言って、そそくさと部屋を出て行った。若様と呼ばれた男性は、ベッドの横に椅子を持ってくると、そこに座ってから少女をじっと見詰めた。少女はその熱い視線に負けたように俯く。頬も体も熱を帯びていく気がする。照れてしまって、相手のことがまともに見られない。
「よく眠れたか?」
「はい!おかげさまで!これはとても良いベッドですね!」
「気に入ってくれてよかったよ。気分はどうだ?顔色もだいぶ良くなったみたいだな」
「たくさん眠れましたから!スッキリしました。食欲もあります!」
「そうか、よかった。でも君は高熱を出して倒れて、まだ病み上がりだ。無理はしないでくれ」
「はい、ありがとうございます」
「……手を、握っても?」
「え?あの……はい、どうぞ」
確認されて、おずおずと片手を差し出すと、男性はその手を両の手のひらで包み込むように握ると、祈るように顔を伏せた。温かい手に包まれていると、心が落ち着く。安心する。照れてしまってまともに見られないような同年代の男性と手を繋いでいるというのに、緊張するよりも穏やかな気持ちになるのは、よくよく考えてみれば少し不思議だ。でもこの気持ちに違和感は無い。
「俺のことを、覚えているか?」
「…………。……あの、すみません。実は、その、あまりよく……」
「……やはり、記憶は……」
「ごめんなさい……。ええと……森の中で、コウモリの魔物に襲われて……私は逃げてて……」
(忘れろ)
思い返していたら、唐突にこの言葉が頭に浮かんだ。誰に言われたのかすら思い出せないのに、それに従ってしまっているようだ。森の中で逃げた後の記憶が、モヤが掛かったようによく思い出せない。少女が辛そうに眉根を寄せているのを見て、男性は首を横に振った。
「……いや、もういいよ。無理に思い出そうとしなくても」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい。魔物に襲われて、君は相当怖い思いをしたようだ。そんな記憶は思い出さなくてもいい。必要が無いから忘れたのだろう」
「そう、なのかな……?ありがとうございます」
そう言って、少女は力無く笑った。男性はそれに、うん、とひとつだけ頷く。
「そうか、じゃあ……自己紹介をしなければならないな。俺の名は、マヨイ」
「マヨイ様ですね」
「様付け!?やめてくれ!」
「ええ?でもダーナさんから若様って……」
「う……それはまあ……その……。そもそも俺は、様付けなんてされるタチじゃない!ダーナは俺が雇用主だからって、ご主人様とか旦那様とか呼ぼうとするから……一番マシだったのがその、若様ってやつだったってだけだ!」
「はあ…なるほど……」
「呼び捨てで構わないよ、俺達きっと、そんなに年齢も変わらないだろう」
「いえ、それはちょっと……私、誰かを呼び捨てにするのがすごく苦手で……」
「ああ……じゃあせめてさん付けにしてくれないか?」
「マヨイさん……ですか?」
「そう」
「……うーん、あんまりしっくり来ませんね。やっぱりマヨイ様って呼ぶのが、自分の中で一番しっくり来ます」
「〜〜〜!」
「それか、私も若様って呼んでもよろしいですか?」
「絶対にやめてくれ!!」
マヨイは軽く手を上げて、手のひらを少女に見せながら首を横に振り、キッパリと断った。よほど嫌なようだ。
「分かった、君から若様なんて呼ばれるくらいなら、マヨイ様でいいよ。そう呼んでくれ」
「わあ!ありがとうございます、マヨイ様!」
本人からの許可を貰えて、少女が花のようにフワッと笑った。こんな笑顔が見られるなら、呼び方なんて些細なことのように思えてくる。この少女から若様と呼ばれるのだけは絶対に嫌だけど。
「それで?」
「はい?」
「それで、君の名前は?」
「あ!ああ、申し遅れました!私……」
「お食事のご用意が出来ましたよおー!」
少女が名乗ろうとした正にその瞬間、ドアの向こうからノックの代わりにダーナの元気いっぱいな声が聞こえてきて、話は中断せざるを得なくなった。
「若様〜!いらっしゃるならちょっとこのドア開けてくれませんことぉ!?」
「ああ、今行くよ」
ダーナに呼ばれて、マヨイは少しだけ仕方無さそうに立ち上がると、指示された通りドアを開けた。すると、ダーナが両手でトレーを持って入ってきた。途端に温かな料理の、とても良い匂いが漂う。
「お話の途中でしたかしら?邪魔しちゃったわね!」
「いえ!そんなこと!…すごく良い匂い!」
「あっはは!お嬢さんのお口に合うといいんですけどね!ほーら、美味しそうでしょ?」
「わあ!本当に!」
ベッドサイドテーブルに置く前に、ダーナはトレーの上の料理を少女に見せてくれた。野菜のポタージュスープに、柔らかそうな白いパンと、果物のピューレが掛かったヨーグルト。どれも消化に良さそうで、そして何より美味しそうだった。
「ありがとうございます、ダーナさん!」
「もし足りなかったらおかわりもあるからね、遠慮せずにおっしゃってねぇ」
「はい!…あ、よかったらダーナさんも聞いていってください。今、自己紹介をしようとしてたところで」
「あーら、そうだったのぉ!それじゃあ、あなたのお名前は?」
「はい!私、ミツカと申します!でも少しだけ発音しにくい文字の並びみたいなので、みんなからはミッカと呼ばれています。私もその方が呼ばれ慣れておりまして」
「そーお!ミッカちゃん!じゃあ、そう呼ばせてもらうわねぇ!」
「はい!よろしくお願いします、ダーナさん!」
「よろしくねぇ!……それじゃ若様、お食事はいつものように。アタシはそろそろお暇させてもらいますよ」
「ああ、いつもありがとう。昨夜は急に呼び出したりしてすまなかった」
「いいんですよぉ!事情が事情だもの!じゃあね、ミッカちゃん!おかわりしたかったら若様に頼んでちょうだいね!」
「は、はい!分かりました!」
「お疲れ様」
「でーは、お先に失礼しますねぇ」
ダーナはひらひらと手を振って見せて、それからドアがパタンと鳴って、部屋にはマヨイとミッカのふたりが残された。
「ああ!良い匂い!」
トレーを膝の上に乗せて食べようとしたが、ベッドが大きくてサイドテーブルまで手を伸ばしても届きそうになかった。
それに気が付いたマヨイが、ミッカを抱き上げてベッドの縁に座れるようにしてくれた。そこでようやく気が付いた。昨夜まで着ていた服から着替えていたことに。今はバスローブのようなものを着ているようだ。
「着替えてる……」
「あ!着替えさせたのはダーナだ!俺じゃない!」
「あ、ああ……あはは、着替えまでさせてもらっちゃって!何から何までお世話になりっぱなしで!」
「いい、気にするな。さあ、食事の時間だ。食べさせてあげよう」
「へゃ!?」
思わぬ提案に、ミッカは思わず変な声が出てしまった。
「い、いいですいいです!自分で食べられます!」
「遠慮はいらない。腕を動かすことすら今はしんどいだろう?」
「う……」
見抜かれているようだ。自力で起き上がるのが難しいほど、今は体中に力が上手く入らない。高熱が出たせいなのだろうか。
「……お願い、出来ますでしょうか……」
「構わない、任せてくれ」
ベッドの縁へ、マヨイも並んで座り、その膝の上にトレーを置いた。スプーンでスープを適量すくうと、口を開けたミッカの口元へ運んだ。ミッカが口を閉じるのを確認して、スプーンをゆっくりと引き抜く。
「…ん!美味しい!美味しいです、とっても!」
「そうか、口に合ったか。よかったな。さあ、もう一口」
「はい!ありがとうございます!」
スープの後は、パンも小さくちぎって口元に運んだ。繰り返す内に、何だかマヨイは小鳥の餌付けをしているような気分になってきた。
「スープにパンを浸して食べてもいいですか?」
「ああ……こうか?」
「はい!ありがとうございます!……あ、垂れちゃう」
「ん……ん!?」
こぼさないように口を開けたミッカの舌が、マヨイの指先に当たった。
「……あ。ごめんなさい、マヨイ様の指先まで舐めてしまいました」
ついうっかりといった様子で、ミッカは軽く頭を下げて謝ったが、マヨイは何か考え事を始めたようにぼんやりとした表情になった。
「……マヨイ様?」
「うん……。……あ!いや、すまない。パンもスープも無くなったな、おかわりはいるか?」
「いえ、もうお腹いっぱいです!ありがとうございます!」
「ヨーグルトは食べられそうか?」
「デザートは別腹ですから!」
「そうか」
マヨイがふっと笑って、今度はデザートスプーンを手に取った。
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