中盤:復讐から共感へ

そんな折、

大物の鯨が浦へ迷い込んだとの知らせが

村を駆け巡った。


浜には不安げなざわめきが広がり、

網を繕っていた手が止まり、

櫓を削っていた老人も

顔を上げた。


時の町奉行所に

「鯨退治の願い書」が届けられたものの、

太平の世に慣れた与力や同心たちには、

化け物のような巨体を前に

解決する知恵も勇気もなく、

ただ狼狽するばかりであった。


漁師たちも、

「下手に手を出せば祟りがある」

と恐れおののき、

沖へ出ることさえためらい、

浜に逃げ惑っていた。


一足先に漁場に着いた勢至丸は、

ざわつく村人たちの声を背に、

不安と興奮で

胸を締めつけられた。


潮の匂いが強くなり、

浅瀬の海は

不自然なほど静まり返っている。


急いで櫓を漕ぎ、

小舟の船首を

鯨へと向けた。


近づくと、

そこには――

憎き鯨の姿があった。

勢至丸の胸に、

父への想いが

一気に燃え上がる。


「今こそ、仇を討つ時だ」


歯を食いしばり、

小舟を操って

鯨の懐へと潜り込む。


切っ先を、

鯨の急所に定めた――

その瞬間。


勢至丸の手が、

止まった。


鯨は、

浅瀬の底砂に

腹を深く取られ、

身動きが取れずにいた。


岩のような皮膚は

あちこちが裂け、

潮と砂にまみれている。


その小さな目からは、

大粒の涙がこぼれ落ち、

苦しげに、

低くうめくような声を

漏らしていた。


その姿は、

村人から石を投げられ、

孤独と絶望の中で

耐えてきた――

自分自身と

重なって見えた。


「……お前も、

 独りなのか」


胸の奥で、

何かが崩れ落ちた。


手負いの相手に

刃を向ける己を恥じ、

勢至丸は

長竹を、

そっと舟底に置いた。


代わりに選んだのは、

討つことではなく、

救うことだった。


警戒して

わずかに身を震わせていた鯨も、

勢至丸の

静かな眼差しに

やがて気づいた。


荒かった呼吸が、

少しずつ、

穏やかになっていく。


勢至丸は

鯨の腹に

そっと手を添え、

柄杓で海水をすくい、

何度もその身体にかけながら

声をかけ続けた。


「大丈夫だ……

 頑張るんだぞ。

 死ぬな……」


潮の音だけが、

二つの命を包んでいた。

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