序章:孤独な少年

時は享保の初め頃(1720年代)。


江戸湾の奥深く、

行徳(ぎょうとく)に近い

小さな漁村での出来事である。


朝夕、浜には潮の匂いが満ち、

網を干す竿が風にきしみ、

沖からは櫓の音が

規則正しく響いていた。


ある日、この静かな浦に

巨大な鯨が迷い込んできた。


黒潮に乗って

外洋から流れ着いたのか。


あるいは、

何かに追われ、

深い海で道を見失ったのか。


それとも、

身に起きた異変によって

己を制御できなくなり、

この入り江へと

迷い込んでしまったのか。


――誰にも、知る由はなかった。


だが、勢至丸にとって、

その理由など

どうでもよかった。


あの黒い巨体は、

父の命を奪った

“鯨”そのものだったからだ。


潮の向こうに

うずまく影を見た瞬間、

胸の奥で

凍りついていた怒りが、

音を立てて目を覚ました。


「また……来やがった」


それが

迷った末の姿であろうと、

傷ついた命であろうと、

勢至丸の目には――


父を海へ連れ去った

仇の姿にしか

映らなかった。


最初にそれを見つけたのは、

村一番の悪童――

勢至丸(せいしまる)であった。


勢至丸の父・寛治郎は、

この辺りでは

知らぬ者のいない

鯨突きの名手だった。


かつて三間(約五・四メートル)余りの

長竹一本で

伝説の古鯨に挑み、

数時間の死闘の末に

それを仕留めた英雄である。


しかし、その代償は

あまりに大きかった。

戦いで負った深手がもとで、

一か月後の霜月、

帰らぬ人となったのだ。


父と二人で

海に出るという夢は、

そこで断ち切られた。


そればかりか、

大黒柱を失った家は

「穢れ」として忌み嫌われ、

勢至丸と母・小糸は

村八分同然の扱いを

受けるようになった。


この村では、

かつて――

鯨に挑んだ舟が戻らず、

一家丸ごと海に消えた

出来事があった。


残された家族は

「海の怒りを招いた」

「災いを呼ぶ家」

と囁かれ、

ほどなく病が流行い、

漁も不作が続いた。


それ以来、

村には

「鯨に関わって死んだ家には

 不吉が宿る」

という言い伝えが

根を張っていた。


人々は、

寛治郎の死を

悲しむより先に、

自分たちの暮らしを守るため、

勢至丸の家から

距離を取った。


――それが、

この小さな村なりの

“生き残る術”だったのだ。


浜で背を向けられ、

市場で声をかけても

返事はない。


人の輪の外で、

潮風だけが

親しく頬を打った。


心労と貧しさから、

小糸の身体は

日に日に衰えていった。


勢至丸は母を守るため、

来るべき日に備えて、

父の形見である長竹を手に、

動きの速い鰹の頭を狙う

稽古に明け暮れた。


「いつか父の仇である鯨を討ち、

村を見返してやる」


その一心で、

わずかな雑魚を売り、

細々と暮らしを支えていた。


潮の満ち引きのように、

怒りは胸の奥で

静かに、しかし確かに

育っていった。

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