第十章 獣人の少女
城門警備隊の改革が軌道に乗り始めた頃、誠一はある任務を与えられた。
「スラム街の治安調査だ」
ガルバスが言った。
「治安調査?」
「最近、スラム街で行方不明者が増えている。騎士団は動く気がないようだから、こちらで情報を集めてくれ」
「騎士団が動かない理由は?」
「スラム街の住人は、ほとんどが獣人か、身寄りのない浮浪者だ。誰がいなくなっても、気にする者がいない」
ガルバスの声には、苦いものが滲んでいた。
「つまり、見捨てられた人々だと」
「そういうことだ」
誠一は頷いた。
「わかりました。調査してきます」
「気をつけろ。スラム街は危険だ。騎士団の制服を着ていれば安全だが、警備員の制服では——」
「大丈夫です。目立たないようにします」
誠一は詰め所を出て、スラム街へ向かった。
* * *
王都グランザリアのスラム街は、街の南東部に広がっていた。
かつては職人街だったらしいが、今は廃れた工房と崩れかけた家屋が並ぶ、荒廃した区域となっている。道は狭く曲がりくねり、日中でも薄暗い。
誠一は私服に着替え、スラム街に足を踏み入れた。
空気が違う、とすぐに感じた。王都の他の地区と比べて、ここは匂いが強い。腐った食べ物、汚水、そして——血の匂い。かすかだが、確かに血の匂いがする。
「何かが起きている」
誠一は『鷹の眼』を発動させ、周囲を観察した。
道端にうずくまる老人。物乞いをする子供。壁に寄りかかって何かを待っている若者——おそらく、何らかの取引の相手を。
一見すると、よくある貧民街の風景だ。しかし誠一の目は、異常を捉えていた。
人が少なすぎる。
スラム街といえど、人が暮らしている以上、ある程度の往来があるはずだ。しかし今、道を歩いている者はほとんどいない。誰もが建物の影に身を潜め、外に出ることを避けているように見えた。
「何かを恐れている」
誠一は慎重に足を進めた。
路地を曲がったとき、声が聞こえた。
「やめて! 離して!」
少女の悲鳴だった。
誠一は足を速めた。声の方向へ向かう。
路地の奥に、人影があった。三人の男が、一人の少女を取り囲んでいる。少女は獣人だった。猫のような耳と尻尾を持ち、年齢は十代半ばくらいに見える。
「大人しくしろ! 暴れるな!」
男の一人が少女の腕を掴んでいた。少女は必死に抵抗しているが、力では敵わない。
「お前みたいな孤児は、誰も探さない。素直について来れば、痛い目には遭わせない」
「嫌! 離して!」
誠一は状況を素早く分析した。
三人の男。武装はナイフ程度。見た目は人間だが、何かが違う。動きが鋭すぎる。普通の人間ではない。
——魔族か。
直感がそう告げた。以前、工作員を見抜いたときと同じ違和感。人間に擬態した魔族の特徴だ。
しかし、相手が魔族だとすると厄介だ。誠一には戦闘能力がない。三人を相手にすれば、確実に負ける。
では、どうするか。
誠一は周囲を見回した。路地の両端には、建物の窓がある。窓の向こうには、おそらく住人がいる。外に出ることを恐れているが、見ていないわけではない。
——群衆を使う。
誠一は大きく息を吸い込み、声を張り上げた。
「城門警備隊だ! そこで何をしている!」
男たちが振り返った。誠一の姿を見て、わずかに警戒の色を見せる。
「警備隊だと? こんな辺鄙な場所に?」
「巡回中だ。その少女を離せ」
「ふん、警備員風情が。関わるな、殺されたくなければ」
男の一人が一歩前に出た。威嚇するように体を膨らませる。
誠一は動じなかった。その代わり、さらに声を大きくした。
「住民の皆さん! 不審者が少女を襲っています! 証人が必要です!」
男たちが困惑した顔をした。何を言っているのか、理解できないようだ。
しかし誠一の狙いは、男たちではなかった。
窓の向こうで、カーテンが動いた。一つ、二つ、三つ——次々と窓が開き、住人たちが顔を覗かせ始めた。
「何事だ」
「警備隊が来ているぞ」
「あいつら、子供を攫おうとしているのか」
声が広がっていく。最初は囁き声だったが、徐々に大きくなっていく。
「やめろ! 子供を離せ!」
誰かが叫んだ。
「なんだと——」
男たちが動揺し始めた。周囲から視線が集まっている。証人が、何十人といる。
「騒ぎになったな」
誠一は冷静に言った。
「このまま少女を連れ去れば、騎士団に通報される。それでもいいのか」
「くそ……」
男たちは互いに目配せした。
「覚えていろ」
そう吐き捨てて、男たちは路地の奥へ姿を消した。
誠一は少女に近づいた。
「大丈夫か」
少女は震えていた。恐怖のあまり、立ち上がることもできないようだ。
「もう安全だ。連れて行かれることはない」
誠一は穏やかな声で言った。少女の目から、涙が溢れ始めた。
「あ……ありがとう……ございます……」
「礼はいい。それより、怪我はないか」
「大丈夫、です……」
誠一は少女を助け起こした。
周囲の窓から、住人たちがこちらを見ている。誠一は彼らに向かって頭を下げた。
「ご協力ありがとうございました。お騒がせしました」
住人たちは驚いた顔をした。警備員が頭を下げるなど、見たことがないのだろう。
「あんた、変わった警備員だな」
老人の一人が声をかけた。
「普通の警備員なら、スラム街になんか来ないぞ」
「巡回の範囲を広げただけです」
「へえ……」
老人は何か言いたそうにしていたが、結局口をつぐんだ。窓が閉まり、人々は再び建物の中に消えていった。
誠一は少女を見た。
「名前は」
「エルナ……です」
「エルナか。一人で暮らしているのか」
「はい……孤児なので……」
「あの男たちは、何者だ」
エルナは震える声で答えた。
「最近、スラム街に来るようになった人たちです。孤児や浮浪者を連れ去って……どこかに売り飛ばしているって噂で……」
「人身売買か」
誠一は顔をしかめた。魔王軍の浸透工作の一環かもしれない。金を稼ぐための手段、あるいは何か別の目的——いずれにせよ、看過できない問題だ。
「エルナ、俺の詰め所まで来い。安全な場所で話を聞きたい」
「え……でも……」
「心配するな。危害を加えるつもりはない。お前の知っていることを教えてくれれば、それで十分だ」
エルナは迷った様子だったが、最終的には頷いた。
「わかりました……ついていきます」
* * *
詰め所に戻ると、エルナは緊張した面持ちで周囲を見回した。
「ここが……警備隊の詰め所……」
「ボロいだろう。騎士団の本部とは比べものにならない」
「いえ……でも、温かいです」
エルナは暖炉の火を見つめた。スラム街では、暖を取ることも難しかったのだろう。
ガルバスが近づいてきた。
「誰だ、その小娘は」
「スラム街で助けた獣人の少女です。行方不明事件について、何か知っているようです」
「ふむ」
ガルバスはエルナを見た。エルナは怯えた様子で、誠一の後ろに隠れた。
「怖がらなくていい。うちの隊長は見た目より優しい」
「おい、見た目より、とはなんだ」
「失礼しました」
誠一は苦笑しながら、エルナを椅子に座らせた。
「さて、エルナ。お前が知っていることを教えてくれ」
エルナはゆっくりと話し始めた。
数ヶ月前から、スラム街で不審な男たちが目撃されるようになったこと。彼らは孤児や身寄りのない者を狙い、言葉巧みに近づいて連れ去ること。連れ去られた者は、二度と戻ってこないこと。
「どこに連れて行かれるのか、知っている者はいないの?」
「わかりません……でも、街の外に運び出されているという話は聞きました」
「街の外……」
誠一は考えた。
王都の外に連れ出すためには、城門を通る必要がある。しかし、誠一たちが監視している限り、不審な動きがあれば気づくはずだ。
——いや、待て。
誠一は自分の盲点に気づいた。
城門警備隊が監視しているのは、入城者だけではない。退城者も確認している。しかし、退城者の確認は入城者ほど厳密ではない。王都から出ていく者は、すでに王都内で何らかの目的を果たした者だからだ。
「出ていく方を、見落としていたかもしれない」
「どういうことですか?」
エルナが不思議そうに聞いた。
「いや、こちらの話だ」
誠一は立ち上がった。
「エルナ、お前は今日からここに泊まれ」
「え? でも……」
「スラム街に戻れば、また狙われる。ここにいれば安全だ」
「いいのですか……」
「ああ」
ガルバスが口を挟んだ。
「おい、誠一。勝手に決めるな」
「すみません。しかし、この子は重要な証人です。保護する価値があります」
「だから勝手に——」
「それに、この子には特殊な能力があります」
誠一はエルナを見た。
「お前、聴覚と嗅覚が優れているだろう」
エルナは驚いた顔をした。
「なぜ……わかるのですか」
「さっきの路地で、お前は男たちが来る前に何かを感じていた。耳を押さえて、鼻をすすっていた。匂いと音で、危険を察知したんじゃないか」
「……はい。遠くから、変な匂いがしたんです。人間じゃない、何か別のもの……」
「それだ」
誠一はガルバスに向き直った。
「隊長、この子の感覚は、私たちの巡回に役立ちます。私の『鷹の眼』は視覚に特化していますが、聴覚と嗅覚は補えない。この子がいれば、より広範囲の異常を検知できます」
ガルバスは腕を組んで考えた。
「……お前の責任だぞ」
「承知しています」
「好きにしろ。だが、隊の邪魔はさせるな」
「ありがとうございます」
誠一はエルナに向き直った。
「エルナ、俺と一緒に働く気はあるか」
「働く……ですか」
「警備の仕事だ。巡回して、異常がないか確認する。お前の耳と鼻が必要だ」
エルナの目が輝いた。
「私……役に立てるんですか」
「ああ。お前にしかできないことがある」
エルナは何かを考えるように俯いた。そして、顔を上げた。
「お願いがあります」
「なんだ」
「私を……弟子にしてください」
「弟子?」
「誠一さんみたいに、人を守れるようになりたいんです」
誠一は少し戸惑った。弟子など取ったことがない。自分はただの警備員だ、何を教えられるというのか。
しかし——
エルナの目には、真剣な光が宿っていた。スラム街で生きてきた少女の、必死さと覚悟が滲んでいた。
「……わかった」
誠一は頷いた。
「ただし、弟子というのは大げさだ。俺に教えられるのは、観察の仕方と、巡回の基本だけだ」
「それで十分です!」
エルナの顔がぱっと輝いた。
こうして、誠一に初めての「弟子」ができた。
* * *
翌日から、エルナの訓練が始まった。
「まずは観察の基本から教える」
誠一は詰め所の外に出て、街並みを指さした。
「お前に質問だ。今、この通りに何人の人がいる?」
「えっと……」
エルナは目を凝らして数え始めた。
「十五人……いや、十六人です」
「正解は十八人だ。あそこの路地の影にいる二人を見落としている」
「ああ……本当だ」
「見ることは、ただ目を開けることじゃない。どこを見るべきか知ることだ。人は目立つ場所を見て、影や隅を見落とす。しかし、異常は往々にして、そういう見落とされる場所に潜んでいる」
エルナは真剣な顔で頷いた。
「次は音だ。お前の耳は俺より優れている。だから、聞き分ける訓練をする」
「聞き分ける?」
「今、どんな音が聞こえている?」
エルナは耳を澄ませた。
「人の話し声……馬車の音……鍛冶屋の槌を打つ音……子供の笑い声……風の音……」
「足音は?」
「足音……たくさんあります。数えきれないくらい」
「その中で、一つだけ違う足音がある。聞き分けられるか」
エルナは集中した。数十秒の沈黙の後、彼女の耳がぴくりと動いた。
「あっちです。他の人より早い。走っている?」
「正解だ」
誠一は頷いた。
「警備において重要なのは、パターンを知ることだ。普通の状態——何も起きていないときの音を覚えておく。そうすれば、異常な音——何かが起きているときの音に気づける」
「なるほど……」
「これを毎日続ける。一週間後には、お前は王都で最も耳のいいセンサーになる」
エルナは嬉しそうに頷いた。
* * *
訓練を始めて数日後、誠一はエルナを連れて巡回に出た。
「今日は実践だ。俺と一緒に城壁沿いを歩く。何か気づいたことがあれば、すぐに報告しろ」
「はい!」
エルナは張り切っていた。初めての実践訓練に、目を輝かせている。
城壁沿いを歩きながら、誠一は周囲を観察していた。いつもの風景。いつもの音。いつもの匂い。異常は——
「誠一さん」
エルナが声をかけた。
「どうした」
「あっちから、変な匂いがします」
誠一は足を止めた。
「どんな匂いだ」
「血の匂い……あと、何か薬みたいな……」
「案内しろ」
エルナの先導で、誠一は路地裏へ入った。
薄暗い路地の奥に、倒れている人影があった。
「これは——」
若い男だった。服はボロボロで、体中に傷がある。気を失っているのか、ぴくりとも動かない。
「まだ息がある」
誠一は男の首筋に手を当てた。脈は弱いが、確かにある。
「エルナ、詰め所に戻って応援を呼べ。この男を運ぶ」
「わかりました!」
エルナは駆け出した。
誠一は男のそばに膝をついた。傷の状態を確認する。切り傷、打撲、そして——拷問の痕跡。
「何があった……」
男の口元が微かに動いた。
「……ら……れた……」
「何だ? 誰にやられた?」
「……連れ去ら……れた……仲間が……」
「仲間?」
「……魔族……やつら……人間を……」
男はそれだけ言って、再び意識を失った。
誠一は立ち上がり、考えた。
魔族が人間を連れ去っている。スラム街の行方不明事件と繋がっている可能性が高い。
しかし、なぜ人間を連れ去るのか。金のためか、それとも——
「何か、もっと大きなことが起きている」
誠一はそう確信した。
やがて、ガルバスとドルフが駆けつけてきた。
「こいつは——」
「巡回中に発見しました。エルナが匂いを察知してくれました」
「エルナが?」
ガルバスは倒れた男を見下ろした。
「ひどい傷だな。拷問されている」
「魔族の仕業だそうです。何か情報を持っているかもしれません」
「騎士団に引き渡すか」
「いえ、まずはうちで保護しましょう。彼が回復したら、話を聞きます」
ガルバスは頷いた。
男を担架に乗せ、詰め所へ運んだ。
* * *
その夜、エルナは詰め所の片隅で眠っていた。
訓練と巡回で疲れ切ったのだろう。毛布にくるまって、安らかな寝息を立てている。
誠一はその姿を見ながら、考えていた。
「この子を巻き込んでいいのだろうか」
魔王軍の陰謀。人身売買。拷問——危険な世界に、この少女を引き込もうとしている。
しかし——
エルナは既に、その世界の中にいた。スラム街で生き延びてきた彼女は、危険と隣り合わせの日々を送ってきたのだ。
ならば、せめて——守るための力を与えることはできないだろうか。
「誠一さん」
エルナが目を開けた。
「起こしたか。すまない」
「いえ……」
エルナは体を起こした。
「私……今日、役に立てましたか」
「ああ。お前がいなければ、あの男を発見できなかった」
「本当ですか」
「本当だ」
エルナの顔に、安堵の表情が浮かんだ。
「よかった……私、ずっと役立たずだったから……スラム街では、何もできなかった……」
「それは違う」
誠一は言った。
「お前は生き延びた。それだけで十分だ」
「でも……」
「いいか、エルナ。生きていることが、一番大事なんだ。死んでしまったら、何もできない。お前は生き延びて、今ここにいる。それはお前の力だ」
エルナの目に、涙が浮かんだ。
「誠一さん……」
「泣くな。明日も訓練がある。寝ろ」
「はい……」
エルナは再び毛布にくるまった。しかし今度は、彼女の顔には微かな笑みが浮かんでいた。
誠一は窓の外を見た。
月明かりが、王都の街並みを照らしている。静かな夜だ。しかしこの静けさの下で、何かが蠢いている。
魔王軍の陰謀。人身売買。そして、まだ見えない巨大な計画。
「守らなければならない」
誠一は呟いた。
この街を。この人々を。そして——エルナのような、弱き者たちを。
それが、警備員としての自分の使命だ。
誠一は窓を閉め、自分の寝床に向かった。
明日も、巡回が続く。
異常を見つけ、人々を守るために。
それが彼の戦いだった。
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