第八章 予兆感知

エルナが城門警備隊に加わってから、二週間が経った。


最初は戸惑いもあった。獣人の少女を警備隊に入れることに、ガルバスは難色を示した。しかし誠一が「私の個人的な補助員として」と説明すると、渋々ながら認めてくれた。


「お前の責任だぞ」


「わかっています」


エルナは誠一の期待以上の働きを見せた。


彼女の聴覚は、誠一の五倍以上の範囲をカバーできた。城壁の向こう側から近づいてくる足音、建物の中で交わされる密談、風に乗って運ばれてくる遠くの物音——人間には聞こえない情報が、彼女の耳には届く。


嗅覚も同様だった。火薬の微かな匂い、血の残り香、人間には感知できない魔法薬の成分——エルナは誠一の「歩くセンサー」として機能した。


「誠一さん、あっちの路地から変な匂いがします」


「どんな匂いだ」


「えっと……硫黄みたいな? あと、なんか甘い感じの」


「魔法薬か、爆発物の可能性がある。確認しよう」


こうして、誠一とエルナのコンビは、王都の安全を守る新たな「目と耳」となっていった。


* * *


その日の夜、誠一は『予兆感知』の異変を感じた。


それは突然やってきた。胸の奥で、何かが警報を鳴らすような感覚。まだぼんやりとしているが、確かな危険の予感。


「何か……来る」


誠一は巡回を中断し、詰め所に戻った。


「どうした」


ガルバスが声をかけた。


「『予兆感知』が反応しています。何か大きな危険が近づいている」


「具体的には」


「まだわかりません。ただ、方向は——」


誠一は目を閉じ、スキルに集中した。


ぼんやりとした予感が、徐々に輪郭を帯びていく。方向、距離、そして——対象。


「王城だ」


「なんだと?」


「王城に、何かが起ころうとしている。暗殺か、侵入か——」


「待て。王城には騎士団の精鋭が詰めている。城門警備隊の俺たちが口を出す話じゃない」


「しかし——」


「誠一、わきまえろ。お前のスキルが正しいとしても、証拠がなければ誰も動かん。まして王城の警備に口を出せば、越権行為で処罰される」


ガルバスの言葉は正論だった。


警備員には権限がない。特に王城の警備は、騎士団の専管事項だ。城門警備隊の隊員が「危険がある」と言ったところで、誰も聞く耳を持たないだろう。


しかし誠一の胸の中で、警報は鳴り続けている。


「リーゼロッテに連絡を取ります」


「お前——」


「彼女なら、少なくとも話を聞いてくれます」


誠一は詰め所を飛び出した。


* * *


リーゼロッテの私邸は、貴族街の一角にあった。


夜も更けた時間帯。普通なら訪問など許されない。しかし誠一に選択肢はなかった。


門番に事情を説明すると、意外にもすぐに通してもらえた。


「リーゼロッテ様は、桐生誠一という人物が来たら通すようにと仰せでした」


「そうですか」


誠一は少し驚きながら、邸内に案内された。


応接室で待つこと数分。リーゼロッテが現れた。夜着の上に外套を羽織っただけの姿で、明らかに寝ていたところを起こされたようだった。


「何事だ。こんな時間に」


「申し訳ありません。しかし、緊急の事態です」


誠一は自分のスキル『予兆感知』について説明した。そして、王城に危険が迫っていることを伝えた。


「王城に暗殺者が?」


「確信はありません。しかし、私のスキルが警告を発しています」


「証拠は」


「ありません」


リーゼロッテは眉をひそめた。


「誠一、お前の能力は信頼している。しかし、証拠なしに王城の警備を動かすことはできない」


「わかっています」


「では、どうしろと」


誠一は考えた。騎士団を動かせないなら、自分で動くしかない。


「私が王城の周辺を巡回します」


「お前が?」


「城門警備隊の業務として、城壁沿いの巡回を行います。その際に、王城の外周も確認できます」


「それは——」


「越権行為にはなりません。城壁の巡回は、我々の正規の業務ですから」


リーゼロッテは誠一を見つめた。しばらくの沈黙の後、彼女は頷いた。


「わかった。私も同行する」


「いいのですか」


「王城の警備は騎士団の管轄だ。私が一緒なら、問題はないだろう」


リーゼロッテは立ち上がり、剣を手に取った。


「行くぞ」


* * *


深夜の王城は、静寂に包まれていた。


石造りの巨大な城は、月明かりを受けて銀色に輝いている。周囲を囲む城壁の上には、等間隔で松明が灯り、見張りの騎士が立っている。


誠一とリーゼロッテは、城壁の外側を歩いていた。


「何か感じるか」


「近づいています。方向は——東側」


誠一の『予兆感知』は、徐々に精度を増していた。危険の源が、確実に王城に接近している。


二人は東側の城壁へ向かった。


ここは王城の裏手に当たる場所だった。正門のある西側と比べて、警備は手薄だ。見張りの騎士も、少なく見える。


「あそこだ」


誠一が指さした場所は、城壁と堀が接する一角だった。


よく見ると、水面に小さな波紋が立っている。何かが水中を移動している証拠だ。


「堀を泳いで渡っている?」


「おそらく」


二人は息を潜めて、その場所を監視した。


やがて、水面から人影が現れた。黒いローブを纏った人物が、堀から這い上がって城壁に取りついた。


「やはり暗殺者か」


リーゼロッテが剣を抜こうとした。誠一がそれを止めた。


「待ってください」


「なぜ止める」


「一人ではない可能性があります。今ここで騒ぎを起こせば、他の侵入者に気づかれる」


「では、どうする」


「まず、見張りに知らせます。そして、侵入者の動きを追跡する」


誠一は静かに近くの見張り塔へ向かった。


塔の上には、一人の騎士が立っていた。誠一が近づくと、騎士は怪訝な顔をした。


「何者だ」


「城門警備隊の桐生誠一です。リーゼロッテ様と同行しています」


リーゼロッテが姿を見せると、騎士の態度が変わった。


「リーゼロッテ様。こんな時間に、何用ですか」


「東側の城壁で、侵入者を確認した。至急、警備を増強せよ」


「侵入者? しかし——」


「疑問は後だ。今すぐ動け」


リーゼロッテの命令に、騎士は慌てて動き出した。ホルンを吹き鳴らし、緊急の合図を送る。


「これでよかったのですか」


「音を立てれば、侵入者にも気づかれる。しかし、お前の言う通りだ。複数いるなら、一人を捕らえても意味がない」


「では、私が追跡します」


「何だと?」


「侵入者がどこへ向かうか、確認する必要があります」


誠一は城壁の影に身を潜めながら、先ほど侵入者が現れた場所へ戻った。


侵入者の姿は既になかった。しかし、濡れた足跡が城壁に残っている。


「こっちだ」


誠一は足跡を追った。


* * *


足跡は、王城の北側へと続いていた。


この方向には、王族の私室がある。国王や王妃、そして王女たちの寝室が並ぶ、最も警備が厳重な区画だ。


誠一は慎重に足を進めた。『鷹の眼』を発動させ、周囲の異変を注視する。


すると、城壁の一角に、小さな影が見えた。


人影だ。黒いローブを纏った人物が、城壁の突起部に身を潜めている。


「そこにいるのはわかっている」


誠一は声をかけた。


人影が動いた。こちらを振り返る。フードの下から、鋭い目が覗いた。


「気づかれたか。面白い」


低い声だった。男の声だが、どこか人間離れした響きがある。


「お前は何者だ。警備員か?」


「城門警備隊の桐生誠一だ」


「警備員? ふん、騎士ではないのか。なぜお前のような者が、ここにいる」


「それはこちらの台詞だ。お前こそ、なぜ王城に忍び込んでいる」


暗殺者は答えなかった。代わりに、腰から短剣を抜いた。


「邪魔者は排除する。死ね」


暗殺者が動いた。


誠一の目には、その動きが見えた。『鷹の眼』と『予兆感知』が、相手の軌道を予測している。


しかし、見えることと避けられることは別だ。


暗殺者の速度は、誠一の反射神経を遥かに超えていた。避けようとしたが、間に合わない。


短剣が誠一の腹部に迫る——


その瞬間、金属音が響いた。


リーゼロッテの剣が、暗殺者の短剣を弾いていた。


「誠一、下がれ!」


リーゼロッテは誠一を庇うように前に出た。彼女の剣が、月光を受けて輝く。


「騎士か」


「王国騎士団、リーゼロッテ・フォン・ヴァルトシュタイン。お前を捕らえる」


暗殺者はリーゼロッテを見て、わずかに首を傾げた。


「ヴァルトシュタイン家の令嬢か。厄介だな」


「観念しろ。逃げ場はない」


「逃げ場がないのは、お前たちの方だ」


暗殺者が何かを投げた。小さな球体が地面に落ち、砕ける。


白い煙が広がった。


「煙幕か!」


リーゼロッテが咳き込む。視界が真っ白になり、何も見えなくなった。


誠一は目を閉じ、『予兆感知』に集中した。視覚に頼れないなら、他の感覚で補うしかない。


——右からの攻撃。


誠一は身を捻った。何かが頬を掠めていく。風圧を感じた。


——左から二発目。


今度は大きく横に飛んだ。背中を壁にぶつけたが、攻撃は避けられた。


煙が晴れ始めた。


暗殺者の姿は、既になかった。


「逃げられたか」


リーゼロッテが悔しそうに言った。


「しかし、目的は阻止できました」


「目的?」


「暗殺者の目標は、おそらく王族の誰かでした。私たちが気づいたことで、計画を中断せざるを得なくなった」


誠一は王城を見上げた。騎士たちが慌ただしく動いているのが見える。警報は既に全域に広がっているはずだ。


「今夜は、これ以上の侵入はないでしょう」


「なぜわかる」


「暗殺者は、こちらの顔を見ました。計画が漏れたと判断するはずです。当分は動けない」


リーゼロッテは誠一を見つめた。


「お前は、本当に警備員か?」


「どういう意味ですか」


「普通の警備員が、暗殺者の攻撃を二度も避けられるとは思えん」


誠一は苦笑した。


「避けられたのは、『予兆感知』のおかげです。私自身には、戦闘能力はありません」


「しかし——」


「今日、私に分かったことがあります」


誠一は言った。


「私は戦えない。しかし、察知することはできる。そして、警告することができる。それが、私にできることです」


リーゼロッテは何も言わなかった。しかし、その目には、新しい理解の光が宿っていた。


「今夜は助けてくれた。礼を言う」


「礼には及びません。私も、あなたに助けられました」


二人は城壁を降り、詰め所へ戻った。


夜明けが近づいていた。


* * *


翌日、王城で厳重な捜索が行われた。


しかし、暗殺者の手がかりは見つからなかった。堀を泳いで渡った形跡、城壁に残った濡れた足跡、そして煙幕に使われた魔法薬の残滓——それだけが、侵入者が確かに存在した証拠だった。


「魔王軍の仕業だろうな」


騎士団の会議で、レオンハルト団長が言った。


「浸透工作の一環として、王族の暗殺を企てた。しかし、未遂に終わった」


「未遂で終わったのは、警備員のおかげだ」


リーゼロッテが発言した。会議室が、ざわめいた。


「警備員?」


「城門警備隊の桐生誠一。彼のスキル『予兆感知』が、侵入を察知した」


「スキルだと? 警備員風情が——」


ハインリッヒが口を開きかけたが、レオンハルトが手で制した。


「リーゼロッテ、詳しく説明せよ」


リーゼロッテは、昨夜の経緯を報告した。誠一の『予兆感知』がいち早く危険を察知し、それがなければ暗殺者の侵入に気づけなかったこと。そして、誠一が身を挺して暗殺者と対峙したこと。


報告が終わると、会議室は静まり返った。


「……ふむ」


レオンハルトが顎を撫でた。


「その警備員、呼べ」


「は?」


「直接話を聞きたい。呼んでこい」


一時間後、誠一は騎士団本部の会議室に立っていた。


十数人の騎士たちの視線が、誠一に集中している。敵意、好奇心、軽蔑——様々な感情が入り混じった視線だ。


「お前が桐生誠一か」


レオンハルトが問いかけた。


「はい」


「リーゼロッテから報告を受けた。お前のスキルが、暗殺者の侵入を察知したと」


「はい」


「そのスキル、どの程度の精度がある」


「正直に申し上げると、発動は不安定です。危険が近づくと警告が発せられますが、具体的な内容——誰が、どこで、何を——までは分かりません」


「使えないな」


ハインリッヒが鼻で笑った。


「漠然とした予感程度で、何ができる」


「ハインリッヒ」


レオンハルトが制した。


「しかし、昨夜の件では役に立ったのだろう」


「おそらく、偶然です」


「偶然でも、結果を出したことに変わりはない」


レオンハルトは誠一を見つめた。鋭い目だが、敵意はなかった。むしろ、品定めをするような目だ。


「お前、騎士団に入る気はないか」


「は?」


誠一は予想外の言葉に、思わず声を上げた。


「お前のスキルは、戦闘には役立たんかもしれん。しかし、偵察や警戒には使える。騎士団の中に、そういう役割を担う部署がある」


「お言葉ですが——」


誠一は首を横に振った。


「私は警備員です。騎士ではありません」


「何?」


「私の仕事は、巡回し、観察し、異常を報告することです。剣を振るうことではありません。騎士団に入れば、その本分を見失ってしまいます」


会議室がざわめいた。騎士団への勧誘を断るなど、前代未聞だ。


「お前、団長閣下の申し出を断るのか」


ハインリッヒが怒声を上げた。


「警備員風情が、騎士団を舐めているのか!」


「舐めてなどいません」


誠一は落ち着いた声で答えた。


「騎士団は、王国を守る剣です。私は、その剣を研ぐ砥石に過ぎません。剣と砥石は、別のものです。砥石が剣になろうとしても、うまくはいかない」


「なんだと——」


「ハインリッヒ、黙れ」


レオンハルトが声を上げた。


そして、意外なことに——彼は笑った。


「面白い男だな。砥石か」


「失礼な物言いだったでしょうか」


「いや、正直で良い。自分の役割をわきまえている者は、信頼できる」


レオンハルトは立ち上がり、誠一に歩み寄った。


「わかった、お前の意思を尊重しよう。しかし、今後も騎士団への協力は続けてもらう。リーゼロッテを窓口として、情報の共有を行え」


「承知しました」


「それから——」


レオンハルトは誠一の肩に手を置いた。


「お前のような者がいることを、覚えておく。剣だけでは、国は守れん。砥石も、盾も、必要だ」


「ありがとうございます」


誠一は深々と頭を下げた。


会議室を出るとき、リーゼロッテが追いかけてきた。


「断るとは思わなかった」


「騎士団に入れば、私らしさを失います」


「らしさ?」


「警備員としての——いや、守る者としての、自分自身を」


誠一は歩きながら言った。


「剣を振るう者は、たくさんいます。しかし、剣を振るう前に危険を察知し、剣を振るわずに済む状況を作る者は、あまりいない」


「それが、お前の役割か」


「そう思っています」


リーゼロッテは黙って誠一の隣を歩いた。


しばらくして、彼女が口を開いた。


「私は——剣を振るうことしか知らなかった」


「それが騎士です」


「しかし、お前を見ていると、別の戦い方もあるのだと気づかされる」


リーゼロッテは足を止め、誠一を見た。


「私に、教えてくれないか。お前の——守り方を」


誠一は少し驚いたが、すぐに頷いた。


「喜んで」


二人は並んで歩き出した。


騎士と警備員。剣と砥石。


異なる役割を持つ二人が、同じ方向を目指して歩いていく。


それは、新しい関係の始まりだった。

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