第四章 最底辺の仕事
城門警備隊での二週間目が始まった。
誠一の朝は、日の出と共に始まる。詰め所の二階にある自室で目を覚まし、顔を洗い、簡素な朝食を済ませる。そして、誰よりも早く持ち場に立つ。
「おはようございます」
北門に着くと、夜勤明けの隊員がいた。五十代の男で、名前はドルフ。元傭兵だが、足を怪我して引退し、行き場をなくしてここに流れ着いたという。
「ああ、新入りか。相変わらず早いな」
「引き継ぎをお願いします」
「引き継ぎ? 別に何もないぞ。夜中は誰も来なかった」
「わかりました。では、夜間の巡回記録を見せていただけますか」
ドルフは困惑した顔をした。
「巡回記録? そんなもの、つけてないぞ」
「巡回はされましたか」
「……まあ、一応な」
その「一応」がどの程度なのか、誠一には想像がついた。おそらく、形だけの一周。問題がないことを確認したのではなく、問題を確認しようとしなかっただけだ。
「わかりました。お疲れ様でした」
誠一は何も言わず、ドルフを見送った。批判しても仕方がない。まずは自分ができることをする。それが第一歩だ。
門に立ち、朝の空気を吸い込む。
この街——ヴァルトハイム王国の首都グランザリアは、人口約五万の城塞都市だ。東西南北に四つの門があり、それぞれに警備隊が配置されている。しかし、東門と南門が主要な商業ルートをカバーしているのに対し、北門は交通量が少なく、予算も人員も最小限に抑えられている。
言い換えれば、北門は「どうでもいい門」だ。重要ではないから、能力のある人材は配属されない。能力のある人材がいないから、業務の質が低下する。業務の質が低いから、さらに軽視される。悪循環だ。
「変えなければいけないな」
誠一は呟いた。
具体的にどう変えるか。誠一は二週間の観察を基に、計画を練っていた。
まず、巡回ルートの再設計。現状では城壁の半分しかカバーできていない。これを変更し、全周をカバーする新ルートを提案する。
次に、チェックシートの導入。何を確認すべきか、基準を明確にする。これにより、個人の能力に依存しない、標準化された業務が可能になる。
そして、引き継ぎノートの作成。情報を蓄積し、パターンを分析できるようにする。
問題は、これらを実現するための権限が誠一にはないことだ。隊員としては最も新参であり、発言力はゼロに等しい。
「誰かに認めてもらうしかないか」
誠一は考えながら、門前の清掃を始めた。
昼過ぎ、ガルバスが見回りに来た。
「どうだ、誠一。問題はないか」
「今朝の入城者は十二名。全員、身元確認済みです。不審者はいません」
「そうか」
ガルバスは頷いた。彼は誠一を気に入っているようだった。密輸犯を捕まえた一件以来、時々こうして様子を見に来る。
「隊長、一つお願いがあります」
「なんだ」
「巡回ルートについて、改善案を作成しました。見ていただけませんか」
誠一は紙を取り出した。手書きの地図と、説明文が書かれている。
ガルバスはそれを受け取り、しばらく眺めていた。
「……城壁の全周を回るルートか」
「はい。現状のルートでは、南側と西側がカバーできていません」
「人手が足りないからな」
「一人で回れるルートです。時間はかかりますが、朝夕の二回で全周をカバーできます」
ガルバスは唸った。
「理屈はわかる。だが、こんなことをやりたがる奴がいるか?」
「私がやります」
「お前一人でか」
「最初は。成果が出れば、他の者も協力してくれるでしょう」
ガルバスは誠一を見つめた。疑念と、かすかな期待が入り混じった目だ。
「……やってみろ。ただし、通常業務に支障が出るようなら、即刻中止だ」
「了解しました」
その日から、誠一は新しい巡回ルートを実践し始めた。
朝の巡回は、夜明けと共に開始する。北門から城壁沿いに西へ向かい、西門の手前で折り返す。城壁の内側だけでなく、外側も可能な範囲で目視確認する。
夕方の巡回は、日没前に開始する。今度は北門から東へ向かい、南門の手前で折り返す。
一周するのに約二時間。これを毎日続ける。
「バカじゃないのか、あいつ」
カルロが陰で言っているのを、誠一は知っていた。
「真面目にやったって、給料は変わらないのによ」
「ほっとけ。勝手にやらせておけばいい」
同僚たちの反応は冷ややかだった。誠一は気にしなかった。
一週間後、最初の成果が出た。
西側の城壁で、大きな亀裂を発見したのだ。外側から見ると、石積みの一部が明らかにずれている。放置すれば、いずれ崩落する可能性がある。
「隊長、報告があります」
誠一はガルバスに報告し、現場に案内した。ガルバスは亀裂を見て、顔色を変えた。
「こいつは……まずいな」
「早急に修繕が必要です」
「わかった。城の工兵隊に連絡する」
その日のうちに、工兵隊が派遣されてきた。亀裂は応急処置され、後日本格的な修繕が行われることになった。
「助かったぞ、誠一。お前が見つけなければ、大惨事になっていたかもしれない」
ガルバスが珍しく、真剣な顔で礼を言った。
「いえ、巡回していれば誰でも気づきます」
「巡回していればな。だが、今まで誰もしていなかった」
ガルバスは苦い顔をした。それは、自分を含めた隊全体への反省だった。
この一件は、隊内で小さな波紋を呼んだ。
「新入りが手柄を立てたらしいな」
「壁の亀裂を見つけたんだと。巡回で」
「へえ……」
同僚たちの目が、わずかに変わった。まだ敬意とは言えないが、少なくとも完全な軽蔑ではなくなった。
誠一はその変化を感じながら、次の段階に進むことにした。
チェックシートの導入だ。
「これを使ってください」
誠一は自作のチェックシートを、他の隊員に配布した。
「なんだこれ」
「巡回時の確認項目です。門扉の状態、城壁の異常、不審者の有無——それぞれ確認したらチェックを入れてください」
「面倒くせえな」
「最初は時間がかかりますが、慣れれば三十秒で終わります」
カルロは渋い顔をしたが、ガルバスの命令もあり、渋々ながらチェックシートを受け取った。
最初の一週間は、ほとんどの隊員がチェックシートをまともに使わなかった。空欄だらけで返ってくるか、適当に全部にチェックを入れて終わりか。
しかし誠一は諦めなかった。
「ジョルノさん、この項目が空欄ですが」
「ああ、見忘れた」
「では、一緒に確認しに行きましょう」
「今からか? 老人をこき使うなよ」
文句を言いながらも、ジョルノは誠一について来た。
こうした地道な働きかけを、誠一は毎日続けた。
二週間後、変化が現れ始めた。
「おい、誠一。この項目なんだが」
ドルフが自分からチェックシートについて質問してきた。
「ここの『門扉の蝶番』ってのは、どこを見ればいいんだ」
「こちらです。この蝶番が錆びていないか、ガタつきがないかを確認します」
「ふむ、なるほど」
ドルフは真面目な顔で蝶番を確認した。元傭兵だけあって、やる気になれば観察眼は鋭い。
少しずつ、だが確実に、隊の雰囲気が変わっていった。
三週間が経った頃、誠一に思わぬ来客があった。
「桐生誠一という者はいるか」
女性の声だった。誠一が振り返ると、門の前に一人の騎士が立っていた。
銀色の鎧。腰には長剣。金髪が風に揺れている。若い女性だったが、その目には確かな意志の光があった。
「私が桐生誠一ですが」
「リーゼロッテ・フォン・ヴァルトシュタインだ。王国騎士団に所属している」
騎士団。この国の軍事エリートだ。なぜそんな人物が、こんな辺鄙な門まで来たのか。
「先日の爆破テロ未遂事件について、話を聞きたい」
「爆破テロ……ああ、あの件ですか」
誠一は思い出した。密輸犯を捕まえた後、その男が供述した内容だ。禁制品の薬物の中に、爆発性の魔法薬が含まれていた。調べたところ、王都の中央広場で大規模なテロを計画していた組織の一員だったらしい。
「お前があの男を捕まえたと聞いた」
「たまたま怪しいと思っただけです」
「たまたま? 週に二度、同じ時間に来ることに気づいたのは、たまたまか? 荷物検査を嫌がる態度に違和感を覚えたのは、たまたまか?」
リーゼロッテの目が、誠一を射貫くように見つめた。
「お前は何者だ、桐生誠一」
「ただの警備員です」
「ただの警備員が、騎士団でも見抜けなかったスパイを発見できるのか」
誠一は少し考えてから、答えた。
「警備員の仕事は、異常を見つけることです。普段と違うものを見つけて、報告する。それだけのことです」
「それだけ、か」
リーゼロッテは腕を組んだ。
「お前のやり方に興味がある。もう少し詳しく聞かせてくれないか」
「構いませんが、なぜ騎士団がそんなことを」
「王都の安全を守るのが騎士団の役目だからだ。お前が役に立つなら、協力を求めたい」
誠一は内心で驚いた。騎士団から協力を求められるとは、予想外だ。
「わかりました。何でも聞いてください」
その日から、リーゼロッテは時々北門を訪れるようになった。
誠一の観察方法について質問し、チェックシートを見せてもらい、巡回ルートの設計思想を聞いた。彼女は騎士でありながら、驚くほど謙虚に学ぼうとした。
「面白い」
ある日、リーゼロッテが言った。
「騎士団では、敵を倒すことばかり訓練する。だがお前は、敵が来る前に防ごうとしている」
「攻撃と防御は、車の両輪です。どちらが欠けても、うまくいきません」
「車?」
「ああ、こちらにはないか。馬車の……いや、なんでもありません」
誠一は言葉を濁した。前の世界の概念を説明するのは難しい。
「ともかく、戦う者と守る者、両方がいて初めて国は守れます。騎士団は戦う者です。私たちは守る者です」
「守る者、か」
リーゼロッテは何かを考えるように黙り込んだ。
「お前の言葉、覚えておく」
そう言って、彼女は去っていった。
一ヶ月が経った。
城門警備隊は、少しずつ変わりつつあった。
チェックシートは定着し、引き継ぎノートも運用が始まった。巡回ルートは誠一の案が採用され、隊員たちも真面目に取り組むようになった。
もちろん、まだ問題は山積みだ。予算は相変わらず少ないし、人員も足りない。カルロのようにサボり癖が抜けない者もいる。
それでも、確実に前進している。
誠一は門に立ちながら、そう確信していた。
「異常なし、か」
呟いて、空を見上げる。
この世界に来て一ヶ月。まだわからないことだらけだ。魔法のこと、この国の政治のこと、魔王という存在のこと。
しかし、やるべきことは変わらない。
観察し、記録し、報告する。異常を見つけ、事態が悪化する前に対処する。
それが警備員の仕事だ。
この世界でも、前の世界でも。
「本日も、ご安全に」
誠一は誰にともなく呟いて、巡回に出発した。
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