第二章 神授スキル:ハズレ

草原を歩き続けて、どれほどの時間が経っただろうか。


太陽は中天を過ぎ、西に傾き始めていた。誠一は自分の腕時計を見たが、針は動いていなかった。電池切れか、あるいは異世界では作動しないのか。いずれにせよ、時計としては役に立たない。


「腹が、減ったな」


最後に食べたのは、巡回前に口にしたおにぎり二個だ。あれから——死んで、復活して、転生して——何時間経ったのかわからないが、空腹感は確実に体を蝕んでいた。


道沿いに歩き続けて、ようやく変化が現れた。


遠くに、建物の影が見える。いや、建物の集まり——街だ。


誠一は足を速めた。疲労で重くなった足を引きずるようにして、街へと向かう。近づくにつれ、街の輪郭が鮮明になっていった。


石造りの城壁が街を囲んでいる。高さは五メートルほど。等間隔で見張り塔が設置されている。正門らしき場所には、武装した兵士が立っていた。


中世ヨーロッパ風、と誠一は思った。いや、それよりも——


「あれは、獣人か」


正門の近くに、明らかに人間ではない存在がいた。猫のような耳と尻尾を持つ女性が、荷車を引いて門をくぐろうとしている。見張りの兵士も特に咎めていない。


獣人が普通に存在する世界。剣と魔法の世界、と女神は言っていた。ファンタジーの世界だ。


誠一は深呼吸して、正門へと歩み寄った。


「止まれ」


兵士の一人が、槍を構えて声をかけた。誠一は両手を見せながら立ち止まった。


「旅の者です。この街に入りたいのですが」


「旅人か。身分を証明するものはあるか」


「申し訳ない。持ち合わせがありません」


兵士は眉をひそめた。もう一人の兵士が近づいてきて、誠一を上から下まで眺め回した。


「妙な格好だな。どこの出身だ」


「遠い国から来ました。詳しく説明するのは難しいのですが——」


「まあいい。入市税として銀貨一枚だ」


誠一は内心で舌打ちした。やはり通貨が必要か。


「すみません。今は一銭も持ち合わせていません。仕事を探しに来たのですが」


兵士たちは顔を見合わせた。


「一文無しの放浪者か。この街にはごろつきが多すぎるんだがな」


「まあ待て。一応、冒険者ギルドで登録すれば入れることになっている」


「そうだった。お前、冒険者になる気はあるか?ギルドで登録すれば、身元保証の代わりになる」


誠一は頷いた。冒険者がどういうものかわからないが、まずは街に入ることが先決だ。


「お願いします」


兵士は街の中を指さした。


「入って真っ直ぐ、広場の手前に冒険者ギルドがある。そこで登録してこい。登録料は無料だ」


「ありがとうございます」


誠一は軽く頭を下げて、門をくぐった。


街の中は、予想以上に活気があった。石畳の道の両側に商店が並び、人々が行き交っている。人間だけでなく、獣人の姿も多い。犬耳の男性が野菜を売り、兎耳の少女が荷物を運んでいる。


「観察しろ」


誠一は自分に言い聞かせながら、周囲の情報を吸収していった。


この街の治安レベル。商店の種類と配置。人の流れのパターン。道の広さと構造。


十五年間の経験が、無意識に働いている。新しい現場に入ったときの、あの感覚だ。まずは地形を把握する。次に人の動きを読む。最後に、異常の基準を定める——何が「普通」なのかを知らなければ、何が「異常」なのかもわからない。


冒険者ギルドは、すぐに見つかった。


石造りの二階建て。入り口の上に、剣と盾を組み合わせた紋章が掲げられている。中からは喧騒が聞こえてきた。


誠一は扉を押して中に入った。


酒場を兼ねた施設だった。一階のほとんどがホールになっており、木製のテーブルと椅子が並んでいる。カウンターの向こうには依頼書が貼られた掲示板があり、武装した男女が行き来している。


これが冒険者か、と誠一は思った。鎧を着た戦士。杖を持ったローブ姿の魔法使い。軽装で短剣を佩いた斥候風の人物。皆、体格がよく、どこか自信に満ちた表情をしている。


誠一は受付カウンターへ向かった。若い女性が座っていた。


「いらっしゃいませ。依頼ですか、それとも登録ですか?」


「登録をお願いします。この街に入るために、身元保証が必要と言われまして」


「承知しました。では、こちらの水晶板に手を置いてください。スキルと基本的な能力を測定します」


水晶板。誠一は差し出された透明な板に手を置いた。


板が淡く光り始めた。光は誠一の手から腕へ、そして全身へと広がっていく。不思議と不快感はなかった。


やがて光が収まり、水晶板の表面に文字が浮かび上がった。


「えーと」


受付の女性が、文字を読み上げた。


「桐生誠一様。年齢二十八歳。種族は人間。神授スキルが二つ——『鷹の眼』と『予兆感知』。習得スキルはなし。戦闘技術はなし。魔法適性はなし、ですね」


彼女の声が、徐々にトーンダウンしていった。


「あの、何かの間違いではありませんか? もう一度測定しましょうか?」


「いや、間違っていないと思う」


誠一は淡々と答えた。予想通りだ。女神の言った通り、戦闘能力は何も与えられていない。


「でも、これでは冒険者としての活動は難しいかと。最低でも剣術か、初級魔法がなければ、依頼をこなすことができません」


「わかっている。登録だけして、仕事は別で探すよ」


受付の女性は困惑した表情で、それでもカードを作成してくれた。木製のプレートに、誠一の名前と、最低ランク「G」の文字が刻まれている。


「これで登録は完了です。ただ、Gランクの方が受けられる依頼は、草むしりか、荷物運びくらいで——」


「ありがとう。助かった」


誠一はカードを受け取り、ギルドを後にした。


外に出ると、何人かの視線が向けられた。ギルドの扉の近くにたむろしていた冒険者たちだ。彼らは誠一のことを、好奇の目で見ていた。


「おい、見たか今の」


「ああ。スキル二つで、どっちも戦闘系じゃねえらしい」


「マジかよ。ハズレもいいところだな」


「かわいそうに。あんなんじゃ、ゴブリン一匹倒せねえぜ」


笑い声が聞こえた。誠一は振り返らなかった。


別に構わない。彼らの評価は、彼らの基準に基づいている。戦闘力がすべて——そういう価値観なのだろう。


しかし誠一の価値観は違う。


警備員は、戦わないことが仕事だ。事件を未然に防ぎ、事態が悪化する前に対処する。剣を振るう必要が生じた時点で、それは既に失敗なのだ。


「仕事を探さないとな」


誠一は街を歩き始めた。冒険者がダメなら、他の道を探すだけだ。


傭兵、商店の店員、工房の職人——様々な可能性を考えながら、誠一は情報を集めた。道行く人々の会話を聞き、商店の貼り紙を確認し、街の雰囲気を読み取っていく。


結論が出るまでに、さほど時間はかからなかった。


この街には、誠一にできる仕事がほとんどない。


いや、正確には「やる気があれば誰でもできる仕事」はあった。日雇いの肉体労働、汚れ仕事、危険な採掘作業。しかしどれも、異世界で生き残るための長期的な展望を与えてくれるものではなかった。


そして、一つだけ——誠一の経験を活かせそうな仕事があった。


「城門警備隊員、急募」


街の広場に貼られた古びた紙を、誠一は食い入るように見つめた。


「待遇:銅貨十五枚(月給)。食事つき。宿舎あり」


条件は厳しい。月給銅貨十五枚は、冒険者の一日の稼ぎにも満たないらしい。そのうえ「急募」の文字が示す通り、なり手がいない。


つまり、誰もやりたがらない最底辺の仕事だ。


それでも、と誠一は思った。


警備なら、俺にもできる。


誠一は紙を手に取り、書かれた住所へ向かった。


王都城門警備隊の詰め所は、街の北門のすぐ近くにあった。古びた二階建ての建物で、壁には蔦が這い、窓ガラスは曇っている。


「失礼します」


誠一は扉を開けて中に入った。


埃っぽい空気が鼻を突いた。薄暗い室内には、壊れかけた机と椅子が置かれている。壁際には武器棚があるが、中身はほとんど空だ。


部屋の奥に、一人の男が座っていた。


白髪交じりの、疲れた顔をした中年の男。制服らしきものを着ているが、皺だらけで手入れが行き届いていない。


「なんだ、あんた」


男は面倒くさそうに声をかけた。


「城門警備隊員の募集を見て来ました。桐生誠一と申します」


「警備員志望? 物好きだな。まあいい、座れ」


男は向かいの椅子を示した。誠一は座り、男と向き合った。


「俺はガルバス。一応、この隊の隊長だ。まあ、隊長といっても、部下は爺さんと怠け者とチンピラ崩れしかいないがな」


ガルバスは皮肉っぽく笑った。


「あんた、冒険者じゃないな。ギルドのカードを見せろ」


誠一はカードを差し出した。ガルバスはそれを一瞥し、眉をひそめた。


「Gランク。スキルは……『鷹の眼』と『予兆感知』か。戦闘系じゃないな」


「その通りです」


「だろうな。戦えるやつは、こんな仕事に来ない」


ガルバスはカードを返しながら、じろじろと誠一を見た。


「なんでこの仕事を選んだ? 日雇いの方がまだマシだぞ」


「警備の経験があります」


「経験? どこでだ」


「遠い国で。十五年ほど」


ガルバスの目が、わずかに変わった。疑いと、かすかな興味が混じった目だ。


「十五年か。本当なら大したもんだ。だが、こっちの警備はあんたの国とは違うぞ。魔物が来ることもある。盗賊が襲ってくることもある」


「承知しています」


「戦えないのに、どうするつもりだ」


「戦う前に、防ぎます」


誠一は静かに言った。ガルバスは黙って誠一を見つめた。


沈黙が続いた。


やがてガルバスは、くつくつと笑い始めた。


「変わったやつだな。気に入った。採用だ」


「ありがとうございます」


「礼を言うのは早いぞ。この仕事は地獄だ。給料は雀の涙、仲間は使えない連中ばかり、世間からは馬鹿にされる。一週間もすれば逃げ出したくなる」


「逃げません」


誠一は言い切った。ガルバスは再び誠一を見た。


「なぜわかる」


「十五年間、逃げなかったからです」


ガルバスは何も言わなかった。しかし、その目には、わずかな敬意のようなものが浮かんでいた。


「明日から来い。宿舎は二階の空き部屋を使え。晩飯は一階の食堂で出る。今日はもう休め」


「了解しました」


誠一は立ち上がり、敬礼した。癖のように、自然に。


ガルバスは目を丸くした。


「なんだ、その仕草は」


「以前の職場での礼です。失礼しました」


「いや……悪くない。そうか、あんたはそういうやつか」


ガルバスは何か納得したように呟いた。


誠一は階段を上がり、空いている部屋に入った。


小さな部屋だった。ベッドと机と椅子だけの、簡素な部屋。しかし誠一には十分だった。


窓から外を見た。夕日が街を赤く染めている。見知らぬ街、見知らぬ世界。しかし、やるべきことは同じだ。


巡回して、観察して、異常を察知する。


「明日から、頑張るか」


誠一はベッドに横たわり、目を閉じた。


異世界での最初の夜は、静かに更けていった。

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