警備員×異世界転生_無権限の守護者 ~異世界でも私は警備員です~

もしもノベリスト

第一章 最後の巡回

午後十時三十二分。桐生誠一は腕時計の針を確認してから、巡回記録表のチェック欄に丸を記入した。


蛍光灯の白い光が、閉店後のショッピングモールを無機質に照らしている。昼間は家族連れや若者たちで賑わうこのフロアも、今は人の気配が消え、マネキンたちだけが凍りついたポーズでショーウィンドウに佇んでいる。


誠一は防災センターを出て、定時巡回の最終ラウンドを開始した。


足音が広いフロアに響く。コツ、コツ、コツ。革靴の規則正しいリズム。十五年間、毎日のように繰り返してきた音だ。


「中央エレベーター前、異常なし」


誠一は小声で呟きながら、手元のチェックシートに視線を落とした。巡回ルートは頭に完全に叩き込まれているが、それでも確認を怠らない。人間の記憶は信用できない。だからこそ、記録が必要なのだ。


三階の婦人服売り場を通過する。閉店後の売り場には独特の匂いがある。新品の布地、消毒剤、そしてかすかに残る香水の残り香。誠一の鼻はこの匂いのわずかな変化も見逃さない。焦げ臭さがあればケーブルの過熱を疑い、カビの匂いがすれば水漏れの可能性を検討する。


「三階東側通路、異常なし」


エスカレーターの脇を通り過ぎる。停止したエスカレーターは、昼間の喧騒を忘れたように静かに横たわっている。誠一はふと立ち止まり、手すりに触れた。冷たい金属の感触。異常な熱や振動はない。


こうした確認作業を、多くの人は無駄だと考える。エスカレーターなど、毎日専門業者が点検しているではないか、と。しかし誠一は知っている。事故は、誰もが「大丈夫だ」と思い込んでいる場所で起きるのだ。


「警備なんて、立ってるだけの楽な仕事だろ」


何度そう言われたかわからない。同窓会で、親戚の集まりで、時には知らない酔客に。誠一はいつも曖昧に笑ってやり過ごしてきた。反論しても仕方がない。この仕事の本質は、何も起きないことだ。何も起きなければ、誰も警備員の存在を意識しない。それでいい。それが正しい。


問題は、何かが起きたときだ。


誠一は四階への階段を上がりながら、今日の日勤帯の引き継ぎ事項を思い出していた。午後三時頃、地下一階の食品売り場で万引きが発生。犯人は五十代の男性で、店員の通報を受けた警備員が声をかけたところ、商品を投げ捨てて逃走。追跡したが見失った。


「追いかけちゃダメなんだよな」


誠一は独り言のように呟いた。警備員には逮捕権がない。できるのは現行犯人を私人として取り押さえることだけで、それも相当の注意が必要だ。追跡中に相手を転倒させれば、こちらが傷害罪に問われかねない。


権限がない。その一言が、警備員という仕事のすべてを物語っている。


四階に到着。ここは家電売り場とゲームコーナーが入っている。誠一は非常口の施錠状態を確認しながら、売り場の間を縫って歩いた。大型テレビの画面は真っ暗で、ゲーム機のデモ画面も消えている。静寂の中に、空調の低い唸りだけが響いていた。


ふと、誠一の足が止まった。


何かがおかしい。


具体的に何がおかしいのか、すぐには言葉にできない。しかし十五年の経験が、警報を鳴らしている。空気の流れ、音の反響、光の加減——何かが、いつもと違う。


誠一は呼吸を整え、五感を研ぎ澄ませた。


視覚。売り場の配置に変化はない。商品の陳列も正常。照明の明滅もなし。


聴覚。空調音、非常灯の微かな電子音——そして。


足音。


誠一の足音ではない。かすかな、しかし確かな足音が、売り場の奥から聞こえている。


「おかしいな」


閉店後のフロアに人がいるはずがない。清掃スタッフは二時間前に撤収済み。設備点検の予定も入っていない。誠一は無線機に手を伸ばしながら、音の方向へゆっくりと歩を進めた。


「こちら誠一、防災センター応答願います」


数秒の静寂の後、無線機からノイズ混じりの声が返ってきた。


『こちら防災センター、どうしました桐生さん』


「四階家電売り場で人の気配。確認に向かいます。念のためカメラで追尾をお願いします」


『了解。四階のカメラ、今切り替えます』


誠一は無線機を腰に戻し、懐中電灯を取り出した。売り場の照明は点いているが、棚の影になる場所も多い。光源は複数あった方がいい。


大型テレビの陳列棚を回り込んだとき、誠一は姿を見た。


若い男だった。二十代後半か三十代前半。黒いパーカーにジーンズ。フードを深く被っているため、顔の上半分は影に隠れている。


男は、ゲームソフトの棚の前に立っていた。


「お客様」


誠一は穏やかな声で呼びかけた。威圧的な態度は禁物だ。相手を刺激すれば、状況が悪化する可能性がある。


「閉店時間は過ぎております。どのようにしてこちらへ?」


男は動かなかった。誠一の声が聞こえていないかのように、棚を見つめている。


「お客様」


誠一は一歩近づいた。そのとき、男の右手が動いた。


光が走った。


蛍光灯の白い光を反射する、細長い金属。刃物だ。男は刃渡り十五センチほどのナイフを握っていた。


「こちら誠一、四階に刃物を持った不審者。応援と警察への通報を要請」


誠一は無線機に向かって早口で告げながら、男との距離を保った。約五メートル。この距離なら、男が突進してきても回避する時間がある——はずだ。


「落ち着いてください」


誠一は両手を見せながら、ゆっくりと語りかけた。


「私は警備員です。あなたを傷つけるつもりはありません。その刃物を置いて、話をしませんか」


男が顔を上げた。フードの影から、血走った目が覗いた。


「うるさい」


低い声だった。かすれていて、何かを押し殺しているような響きがある。


「お前に何がわかる。誰も俺のことなんか——」


男の言葉が途切れた。視線が誠一の背後に向けられる。


誠一は振り返らなかった。振り返れば、男から目を離すことになる。しかし、背後に何かがいることは気配でわかった。


足音。小さな、軽い足音。


「お母さん、どこ——」


子供の声だった。


誠一の背筋を冷たいものが走った。閉店後のモールに子供がいる。迷子だろうか。どこかに隠れていて、今になって出てきたのか。


「動くな!」


男が叫んだ。ナイフを振り上げ、誠一を押しのけるように前に出る。その視線は、誠一の背後——子供に向けられていた。


誠一は考えるより先に体が動いていた。


男の腕を掴む。しかし男の力は予想以上に強く、振りほどかれる。ナイフが弧を描いて振り下ろされる。誠一は身を捻って刃を避けようとしたが、完全には避けきれなかった。


左腕に焼けるような痛みが走った。


「逃げろ!」


誠一は背後の子供に向かって叫んだ。声を出すと同時に、男に向かって踏み込む。刃物を持った相手に素手で向かうのは自殺行為だ。わかっている。しかし、後ろにいる子供を守るには、自分が壁になるしかない。


男が再びナイフを振るう。今度は誠一の胴体を狙っていた。


避けられない。


その確信と同時に、誠一は子供のいる方向に体を向けた。背中で刃を受ける。そうすれば、子供には届かない。


衝撃が走った。背中の中央、少し右寄り。熱い。痛いというより、熱い。


「桐生さん!」


無線機から声が聞こえた。駆けつけてくる足音も。しかし誠一の意識は急速に遠のいていく。


床に膝をついた。視界が滲む。子供の泣き声が、どこか遠くから聞こえる。


「逃げ、られたか」


声が出ない。口の中に鉄の味が広がる。


誠一は床に倒れながら、妙に冷静な思考が頭をよぎるのを感じていた。


十五年間、警備員をやってきた。何千回と巡回をして、何百件と異常を報告して、何十人との不審者に対応してきた。しかし、こんな形で終わるとは思っていなかった。


いや、こんな形で終わることを、どこかで覚悟していたのかもしれない。


警備員は、最後の砦だ。警察が来るまでの、ほんの数分間。その数分間を稼ぐために、自分たちはここにいる。


権限がない。武器もない。あるのは、制服と、この体だけ。


それでも、守ることはできる。


「異常、なし——」


誠一は呟いた。習慣のように、無意識のように。


「いや、俺が——異常、か」


視界が暗転する直前、誠一は不思議な感覚を覚えた。体が軽くなっていく。床に沈んでいくのではなく、どこかに浮かび上がっていくような——


意識が途切れた。


* * *


誠一の意識が戻ったのは、死の数時間後のことだった——少なくとも、彼自身はそう認識していた。


最初に感じたのは、浮遊感だった。体の重さがない。痛みもない。あるのは、どこまでも続く白い空間と、かすかな温もりだけ。


「お目覚めですか」


声が聞こえた。鈴を転がすような、しかしどこか威厳のある声。


誠一は首を巡らせた——首があることに、まず驚いた。刺されたはずだ。背中から血を流して、床に倒れたはずだ。なのに、今の自分には傷一つない。


「ここは」


「境界の間、とでも呼びましょうか」


声の主が、誠一の前に姿を現した。


女性だった。いや、女性の姿をした何か、というべきか。白い衣をまとい、長い銀髪が無風の中でたなびいている。その目は金色に輝き、人間離れした美しさを湛えていた。


「あなたは死にました」


女性は事実を告げるように淡々と言った。


「背部と左肋骨の間を刺され、内臓損傷と大量出血により、搬送先の病院で死亡が確認されました。午後十一時四十七分のことです」


誠一は何も言えなかった。死んだ。その言葉が、現実として頭に入ってこない。


「しかし、あなたには選択の機会が与えられます」


女性が続けた。


「このまま輪廻の流れに還るか、あるいは——別の世界で、新たな生を受けるか」


「別の世界」


誠一は鸚鵡返しに呟いた。女性は優雅に頷いた。


「私の管理する世界があります。剣と魔法が栄え、様々な種族が暮らす世界。あなたの魂は、その世界で新たな肉体を得ることができます」


「なぜ、俺なんかに」


「あなたの死に方が、目に留まりました」


女性の表情が、わずかに和らいだ。


「権限もない。武器もない。それでもあなたは、見知らぬ子供を守るために、自らの体を盾にした。その魂の在り方は、私の世界に必要なものです」


誠一は沈黙した。


死んだのだ、という実感が、ようやく湧いてきた。もうあの職場には戻れない。後輩の山田に、巡回の極意を教える約束をしていたのに。防災センターの冷蔵庫に入れっぱなしの弁当は、誰かが処分してくれるだろうか。


「家族は」


「独身でしたね。ご両親は他界されています。お姉様がいらっしゃいますが、ここ数年は疎遠だったようです」


誠一は苦く笑った。その通りだ。三十八歳、独身。趣味は巡回と、チェックシートの改善。我ながら、寂しい人生だった。


「俺が行ったところで、何ができる」


「それは、あなた次第です」


女性は言った。


「私があなたに与えられるのは、新しい肉体と、あなたの魂に最も適したスキル。それ以外のものは、あなた自身の手で勝ち取らなければなりません」


「スキル」


「神授スキルと呼ばれるものです。私から魂に直接刻まれる能力。あなたの場合は——」


女性が右手を翳した。光が誠一を包み、体の中に何かが流れ込んでくる感覚があった。


「『鷹の眼』。観察力を極限まで高めるスキルです。そして『予兆感知』。危険の気配を、事前に察知する能力」


誠一は自分の手を見つめた。何も変わっていないように見える。しかし、確かに何かが違う。世界の見え方が、わずかに——鮮明になったような。


「戦闘能力は与えられないのか」


「与えられません」


女性はきっぱりと言った。


「あなたの魂は、戦いのための魂ではない。守るための魂です。私が与えられるのは、その本質を強化するものだけ」


「ハズレ、ということか」


誠一の言葉に、女性は首を傾げた。


「ハズレ? いいえ、そうは思いません。剣を振るう者は多くいます。魔法を使う者も多くいます。しかし、本当に『守る』ことができる者は稀です。あなたは、そうなれる可能性を持っている」


誠一は何も言わなかった。ただ、自分の手を見つめていた。


十五年間、警備員をやってきた。守ることが仕事だった。しかし、結局のところ、自分は何を守れたのだろう。万引き犯を取り押さえることもできず、今日に至っては刃物男に刺されて死んだ。


いや——子供は、助かったのだろうか。


「あの子供は」


「無事です。あなたが盾になったおかげで、傷一つありません」


誠一は、深く息を吐いた。体がないはずなのに、安堵が胸を満たすのを感じた。


「なら、いい」


「行く気になりましたか」


女性が微笑んだ。誠一は少し考えてから、頷いた。


「どうせ死んだんだ。選択肢があるなら、やってみるのも悪くない」


「よろしい」


女性が両手を広げた。白い空間が光に包まれ、誠一の体が——あるいは魂が——下へと落ちていく感覚が生まれた。


「忘れないでください」


遠ざかっていく女性の声が、最後に告げた。


「あなたは警備員でした。そしてこれからも——警備員であり続けることができます。守ることを、誇りに思いなさい」


光が弾けた。


そして誠一は、草原の上で目を覚ました。


最初に感じたのは、風だった。乾いた、しかし心地よい風が頬を撫でていく。次に匂い。草の匂い、土の匂い、そして——知らない花の香り。


「ここは」


誠一は上体を起こした。体が軽い。三十八歳の疲れた体ではなく、二十代後半くらいの肉体に感じられる。


周囲を見回す。広大な草原が、どこまでも続いている。遠くに山脈が見え、反対側には森が広がっている。空は青く、雲は白い。しかし、太陽の位置と光の角度が、誠一の知っている地球のものとは微妙に違っていた。


「異世界、か」


口に出して言ってみると、妙に実感が湧いてきた。本当に来てしまったのだ。剣と魔法の世界に。


誠一は立ち上がり、自分の体を確認した。服装は——驚いたことに、警備員の制服だった。紺色のブレザーに、同色のスラックス。胸には、どこの会社のものでもない名札がついている。


「桐生誠一、か」


名前だけは変わっていないらしい。しかし、この格好で異世界を歩き回るのは目立つだろう。


誠一は周囲を観察した。癖のように、情報を収集する。


草原の中に、かすかな道のようなものがある。草が倒れている方向から、ここが人の通り道であることがわかる。道は東——太陽の位置から方角を推定する——に向かって伸びている。


「人がいる場所があるなら、まずはそこを目指すか」


誠一は歩き始めた。


空気の匂いが違う、と改めて思った。工場の煙も、車の排気ガスもない。純粋な、自然の匂い。久しく嗅いでいなかった匂いだ。


しかし、感傷に浸っている場合ではない。ここがどういう世界なのか、まだ何もわかっていない。言葉は通じるのか。通貨は何か。法律はどうなっているのか。警備員としての知識と経験が、この世界でどこまで通用するのか。


考えることは山ほどあった。


それでも、と誠一は思った。


足を動かすことはできる。目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅ぐことはできる。


巡回は続けられる。


「異常なし——」


誠一は呟いた。草原の真ん中で、誰に聞かせるでもなく。


「本日の巡回を、開始する」


そうして、異世界の警備員の物語が始まった。

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