第1話祝福の日に、彼女は名を持たなかった
十八歳になる誕生日の朝は、いつもより静かだった。
目覚ましが鳴る前に目が覚め、天井を見つめながら、自分が今日どこへ行くのかを思い出す。
法律で定められた義務。
ダンジョン最初の休憩所にある泉で、祝福を受ける日。
理由は誰も知らない。
ただ「そうなっている」から、皆行く。
俺も例外じゃない。
「……起きた?」
耳元で、少しだけ眠たげな声がした。
振り向かなくても分かる。
生まれた瞬間から、ずっと一緒にいる存在。
「起きてる」
そう答えると、気配が動いた。
視界の端に、淡い輪郭が揺れる。
彼女は精霊だ。
俺の相棒。
人の形をしている日もあれば、獣のような日もある。
今日は曖昧だった。輪郭は女性に近いのに、背中から細い枝葉のようなものが伸びている。
「緊張してる?」
「別に」
嘘ではない。
祝福が何かをもたらすのか、何も変わらないのか、正直どうでもよかった。
彼女は少しだけ笑った気がした。
「嘘。心拍、ほんの少し早い」
「……精霊のくせに細かいな」
「精霊だから、でしょ」
軽口のようで、でもどこか優しい声音。
この世界では、人は必ず精霊を持つ。
能力であり、人格であり、時には記憶そのもの。
珍しいことじゃない。
だから、特別扱いもされない。
ただ――。
俺の精霊は、名前を持たなかった。
呼ぼうとすると、いつも何かが引っかかる。
音にならないまま、喉の奥で消える。
「今日、泉だね」
「ああ」
「……そっか」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
⸻
ダンジョンの入口は、街の中心にあった。
巨大な施設でも、神殿でもない。
ただの広場に、ぽっかりと開いた階段。
配信ドローンが飛び交い、人々が談笑しながら降りていく。
探索者として生計を立てる者、配信で稼ぐ者、義務だけを果たしに来た者。
俺は最後の一人だった。
配信は義務だ。
顔も声も、出す必要はない。
生存確認のための最低限の映像だけが、記録として残る。
階段を降りる途中、視線を感じた。
上位精霊だろう。
人型で、王冠のような光をまとった存在が、こちらを見ていた。
目が合う。
一瞬、空気が変わった。
畏怖。
それだけが、はっきりと伝わってきた。
俺ではない。
俺の隣にいる、名を持たない彼女へ。
だが、何も言わない。
誰も、何もしない。
それが、この世界のルールだ。
⸻
休憩所は、驚くほど質素だった。
石の床。
簡素なベンチ。
中央に、澄んだ泉。
祝福は、そこに手を浸すだけ。
順番が来る。
冷たい水が、指先から広がった瞬間。
――何かが、こちらを見た。
直接ではない。
視線でもない。
「観測」だ。
背後でも、上でも、下でもない。
世界そのものが、静かに瞬きをした感覚。
「……ねえ」
彼女が、初めて不安そうな声を出した。
「大丈夫?」
「何が?」
答えた瞬間、泉の水面が揺れた。
祝福は、いつも光るらしい。
能力が定まり、精霊が一段階進化する者もいる。
だが、俺の前では――何も起きなかった。
光らない。
変化もない。
ただ、水が静かに澄んでいるだけ。
周囲がざわつく。
「不発か?」
「記録ミス?」
「そんなことある?」
係員が近づき、端末を確認する。
「……祝福は、正常に完了しています」
「え?」
「異常はありません」
彼はそう言い切った。
だが、視線は俺を見ていない。
俺の隣を、見ていた。
彼女は、少し困ったように笑った。
「ほら、大丈夫だった」
「……何も、変わってないぞ」
「うん」
それでも、彼女はどこか満足そうだった。
そのとき、配信ログに小さな文字が流れた。
【記録:祝福完了】
【付与能力:該当なし】
【備考:観測対象】
観測対象。
誰も、それについて説明しなかった。
俺も、聞かなかった。
ただ一つだけ、確信したことがある。
――この祝福は、俺のためじゃない。
彼女のためでもない。
何かが、俺たちを見続けるためのものだ。
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