ほろ苦くて甘ったるい
早朝の電車の窓にぼやけた自分の顔が映る。残り香のように今朝見た夢が香澄の胸に引っかかっていた。
ふとした瞬間にいつも頭に浮かんでしまう。三ヶ月前に別れたばかりの彼、史郎のことがまだ抜けなかった。
劇的な別れをしたわけではない。ただ将来のことを考える中でちょうど互いに忙しくなって、気づけば一緒にいる理由が薄れていた。
自分の時間を見直すために。そう納得し合って離れることになったのだ。
離れただけ。区切りをつけて別れていない。だから一人でいる自分の姿を見ると、どうしようもなく空虚な穴が開く。
今朝、香澄は苦々しい夢を見た。駅前から少し離れた路地にある小さな喫茶店の窓際。
夢の中の史郎は嬉しそうに仕事の話をしていた。相手は香澄の知らない誰かだった。彼女の顔は見えないのに、幸せそうな微笑みを浮かべていることだけが分かる。
彼女が史郎の手をそっと握る。香澄は冷たい痛みに襲われた。胸の奥がざわつく。まだ三ヶ月しか経っていないのに、史郎の笑顔が、無意識にラテのクリームを混ぜる仕草が、遠く懐かしく思われて堪らなかった。
目が覚めてからもざわめきは消えない。
ろくでもない夢だった。香澄の知らないところで史郎が幸せそうにしている想像。あからさまで格好悪い未練は、見つめ直した自分そのものだった。
昼は目が回るほど忙しい広告代理店の仕事で気が紛れた。夜は一人の部屋でインスタントラーメンを啜る。気苦労のない孤高の暮らし。
ある日の仕事帰り、雨に降られて濡れた傘をたたみながら、小さな書店のウィンドウで立ち止まる。店の奥に覚えのある後ろ姿を見つけてしまった。
あちこちに気を取られる子供のような歩き方、彼自身と同じくらい頑固な寝ぐせ、ずっと隣にあった肩幅。史郎だと確信するのに時間は要らなかった。
彼はミステリー小説のコーナーで新作らしいタイトルを手に取り、ページをめくっている。香澄には気づかない。
声をかけてみようか。別れた女に会うのは気まずいだろうか。このまま立ち去るべきか。そんな考え自体が執着じみている。
香澄の足は勝手に書店の奥へ向かっていた。
「史郎?」
彼はゆっくり振り向いて、目が合った瞬間ほんの少しだけ驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。
「香澄。久しぶり」
夢で見た笑顔と同じだった。
史郎は手に取っていた本を買い、なんとなく二人で店の外へ出る。雨はすでにあがってアスファルトが煌めいていた。
いつもの喫茶店へ行き、いつもの窓際の席に座る。
沈黙がしばらく続いた。史郎はラテをスプーンで混ぜながら窓の外を見つめた。
「最近、どう? ……って、つまらないこと聞いてるな」
なんだかすごく長いこと会わなかった気がして。ぽつりと漏れた彼の呟きに香澄の心が跳ねた。
「この前、史郎が夢に出てきたよ。……ろくでもない夢だった」
「ひどくない?」
史郎は苦笑して、すぐにわざとらしいほど真面目な顔になる。
「俺も香澄の夢見たよ。バリバリの女社長になってた」
「ええ? なにそれ」
真顔で言うものだから香澄もつい笑ってしまう。互いの未練を夢がこっそり覗いていたような気がした。
史郎は最近、転職の準備をしているらしい。毎日夜遅くまで残業ばかりだと、それでも楽しそうに話した。香澄は仕事の忙しさで本を読む時間もないと愚痴をこぼした。プライベートの淋しさは素直に言えなかった。
けれど香澄の少しひねくれた性格も、史郎はよく知っていた。「ねえ、もう一回だけ」と彼が言う。
「ちゃんと話さない? あのときは言えなかったことがある」
香澄は胸がぎゅっとなった。言えなかったこと。自分も同じだった。
二人はそのまま夜まで話した。三ヶ月間の淋しさも、溜め込んでいたお互いへの不満も、久しぶりに会えた喜びも、これから先のことも。
「俺、楽なほうに流れてたと思う。正直香澄より稼げるようにはなれないし、将来を考えたら俺じゃなくてもいいんじゃないかって。君を背負う覚悟を決めるより、自分を卑下するほうが簡単だったから」
その言葉は重さを増して香澄の胸に落ちた。
「私も同じようなもんだよ。別れたくないって言うのが恥ずかしくて、史郎の前ではべつに平気って顔してたかった。馬鹿みたいだけど」
「俺はもうちょっとしっかりして、香澄はもうちょっと素直にならないとな」
夢ばかり見上げて背伸びをするのではなく、ただ隣にいる互いの瞳をちゃんと見つめて。
それから二人はゆっくりと、以前よりも互いの足並みを気にしながら時間を共にするようになった。
急がない、期待しすぎない。独り言にも似た些細なメッセージを送り合い、週末には駅から大通りを並んで歩くだけの、デート未満の約束を交わす。
互いを試す大げさなイベントはなく、ほんの小さな日常の積み重ねが新しい関係を育てていった。
ある朝、香澄はまた夢を見た。今度の夢には香澄もいた。
二人は知らないアパートの台所に並んで立って、史郎が不器用に朝ごはんを作るのを嬉しそうに眺めている。失敗して卵を割って床に落とす。彼が謝って、香澄が笑って、二人で掃除する。
夢の中の史郎はぎこちないけれど彼らしく真剣で、香澄はそんな彼に照れていた。
ろくでもない夢だった。期待と願望と理想を砂糖で煮詰めたような、甘ったるい、けれど温かい夢だった。
再び会ってから半年後、春の終わりに咲き誇った桜が静かに散る。
別れた日の空白は完全には消えない。忘れようとする瞬間には思い出もまた生き返る。しかし二人には、新しい習慣と約束がある。
言葉を溜め込まず、ちゃんと喧嘩をする。疲れた日は素直に助けを求める。どうでもいいことを写真に残して送る。気恥ずかしくても好きを伝える。
史郎は香澄の手を握り、香澄もそれを握り返した。狭いアパートの一室で互いの体温を感じる。
完璧な結末ではない。二人の未来はまだ未完成で、時々ほろ苦い後味や胸焼けを残すだろう。けれどそのぬくもりは、じんわりと幸福を育てるカフェラテの味がする。
夜、ベランダに座って二人は肩を寄せ合う。バイクの音が遠くに消え去り、街灯が柔らかく光っていた。
夢はろくでもなくて構わない。朝がくれば、甘さと苦味が混じり合う現実を共に歩いていくのだから。
次の更新予定
ろくでもない夢を見た ono @ono_
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