ろくでもない夢を見た

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ろくでもない夢を見た

 最悪の目覚めだった。

 薄いカーテン越しに差し込む白い光が、まだ沙帆の瞼に残る鮮烈な青を薄く染める。甘くて苦いソーダ水のような感覚が喉の奥に張りついている。

 夢が終わったことにまだ気づいていない心臓がどきどきと早鐘を打った。

「……あーあ」

 沙帆は重たい身体を起こして深く溜息をついた。

 隣では恋人の悟が穏やかな寝息をたてて眠っている。

 着古したグレーのスウェット、少し伸びた無精ひげ、まぬけに開けたままの口。そのあまりにも平和な寝顔を見て、沙帆はまた一つ小さな息を吐き出した。


 夢を見た。もう十年も前に別れた、かつての恋人の夢だった。

 自分たちがまだ学生で、理不尽なほど若かった頃。場所はよく待ち合わせに使っていた駅前のロータリー。

 土砂降りの雨の中であの人は傘もささずに立っていて、沙帆もまた、濡れることなんて気にも留めずに彼へと駆け寄った。

 夢の中で何を話していたのかは覚えていない。ただ胸が張り裂けそうなほどの焦燥感と、触れれば火傷しそうな熱が胸を焦がした。

 世界には私たち二人しかいない。そんなことを本気で信じていた、痛々しいほどの全能感。


 目が覚めて沙帆を襲ったのは強烈な喪失感だった。あの頃のひりひりするような愛おしさは、今の生活にはない。


 沙帆は悟を起こさないようにそっとベッドを抜け出して、キッチンへ向かった。電気ケトルのスイッチを押し、マグカップを二つ取り出す。

 悟との同棲生活は今年で三年目になる。

 彼は雨の中に立ち尽くして沙帆を待ったりしない。LINE一つで「今ファミマ。何かいる?」と聞いてくる端的な男だ。

 喧嘩をして感情をぶつけ合うこともなければ、泣きながら抱き合うこともない。私たちの関係は適温のお湯のように心地よくて、そして退屈なほどに穏やかだった。


 私は、あの頃に戻りたいんだろうか。

 沸騰したお湯をドリップバッグに注ぎながら、ふとそんな疑問が頭を過る。

 鋭くて不安定で、傷つけ合うことさえも快感だった恋の日々。もしあの人と今も続いていたら、今日という日はどうなっていただろう。

 コーヒーの香ばしい匂いが立ちのぼると同時に湯気で視界が滲んだ。

 願いではない。ただ思い返して想像する。若かったいつかの私への追悼だった。あの無鉄砲な情熱は、もう私には残っていない。


「……ん、いい匂い」

 掠れたささやき声に振り返ると、悟が目をこすりながら起きてきたところだった。

 寝癖で髪が爆発している。夢の中の元恋人とは似ても似つかない間の抜けた姿。

「おはよ。コーヒー淹れたよ」

「ありがと、沙帆ちゃん。……なんか顔色悪くない? あんま寝れんかった?」

 悟が心配そうに覗き込む。その何気ない優しさに少しだけ胸が痛くなる。沙帆は苦笑いを浮かべて、カップを渡した。

「ううん。爆睡してた。……ろくでもない夢を見た」

 そう呟くと悟は「なにそれ」と笑って、マグカップに口をつける。「あちっ」と慌てて、口を尖らせ息を吹きかける仕草に、沙帆の苦笑いが微笑に変わっていった。


「ろくでもないなら忘れちゃったほうがいいな。俺なんかさっき、巨大なちくわに追いかけられる夢見たよ」

「え、それこそなにそれ」

「怖かったよー、穴から向こうが見えんだもん」

「そりゃちくわだったらね」

「夢の中で『怖い』って設定されてたら、マジで怖いんだって」

 真顔で言う悟に沙帆は吹き出してしまった。さっきまでのセンチメンタルな気分が、悟のどうでもいい夢の話で霧散していく。


 夢の中で『鮮烈な記憶』と設定されていたから懐かしい。それだけのことなのかもしれない。

 目覚めた後の焦げつくような気持ちは現実の中に薄れつつあった。


 悟はキッチンカウンターに寄りかかりながら窓の外を見る。

「今日、天気いいね。散歩でも行く? 駅前のパン屋、新作出たらしいよ」

「……うん、行こうかな」

「健康的だぜ~」

 沙帆は悟の隣に並んで、彼のスウェットの袖をそっとつまんだ。

 着潰したコットンの感触。寝起きの体温。コーヒーの湯気。ここには、あの頃の荒れ狂う嵐も火傷するほどの熱もないけれど、雨に濡れずに済む屋根があり、こうして隣で笑ってくれる人がいる。


 あの夢が鮮烈なのは、それがもう過去の遺物に過ぎないからだ。

 美化された記憶は今の幸せを脅かす毒になりかねない。でも、ひりつくような若さの痛みを通り過ぎてきたからこそ、今の穏やかな温もりを静かに味わうことができる。

「ねえ、悟」

「ん?」

「パン屋行ったら、一番高いデニッシュ買っていい?」

「えー、いいよ。じゃあ俺もカレーパンふたつも買っちゃう。ふたつも」

「あはは、なんで二回言ったの?」

 ほろ苦い余韻をコーヒーと一緒に飲み込んでしまう。


 ろくでもない夢から覚めた現実は、カーテン越しの朝陽みたいにぼやけて優しい。

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