硝子戸

速水静香

硝子戸

 山肌にしがみつくように点在する集落の、さらにその奥深く。道が途絶える寸前の場所に、私の新たな住まいはあった。


 築年数は六十年とも八十年ともつかない。不動産屋は口当たりの良い言葉でこの物件を推奨したが、実態は住人が絶えて久しい廃屋に近かった。柱は竈の煤を吸って黒く煤けており、畳は長年の湿気を孕んで、踏みしめるたびに足裏へ不快な粘り気を伝えてくる。

 だが、それでよかった。

 都会で擦り減らした神経を休めるには、他人の息遣いが聞こえない、この重苦しいほどの静寂が必要だったのだ。


 引越しの片付けがようやく一区切りついたのは、入居から三日目の朝だった。

 目覚めたとき、部屋の空気がどこか変質しているのを感じた。湿度とは異なる、肌にまとわりつくような違和感。

 寝室としてあてがった八畳間の障子を開け放つ。縁側の向こうには、背丈ほどもある雑草が蔓延る庭が広がっていた。裏山の木々が覆いかぶさるように枝を伸ばし、昼間でも薄暗いその空間を、硝子戸が一枚隔てている。


 その硝子に、汚れが付着していた。


 昨晩、山間部特有の激しい雨が降った。泥が跳ねたのだろうと最初は考えた。

 私は台所へ向かい、使い古したタオルを水で濡らして戻った。

 だが、縁側に膝をつき、雑巾を硝子に当てようとした瞬間、手が止まった。


 それは泥はねではなかった。

 掌の跡だ。

 大きさからして、五つか六つの子供のものだろうか。赤黒い粘土をこねくり回したような指先が、硝子の表面にべたりと押し付けられている。指紋の渦までもが、不気味なほど鮮明に残っていた。

 腰の高さあたりに、三つ、四つ。

 それらは掌の形状で、しかも、部屋の内側から跡がついている。


「……おい」


 独り言が、埃っぽい部屋に吸い込まれる。

 腹の底から、じわりと不快感がせり上がってきた。何者かにプライバシーを侵害されたような、土足で心の中を踏み荒らされたような感覚。

 私は苛立ちに任せて雑巾を硝子に押し付けた。

 ごし、ごし、と力を込める。赤黒い汚れは、井戸水を含んだ布に絡め取られ、案外あっさりと落ちた。

 バケツですすぐと、水が一瞬で鉄錆のような色に濁り、生臭い土の匂いが立ち上った。


 異変が日常を侵食し始めたのは、その翌日からだ。

 朝、重たい瞼を持ち上げて硝子戸を見るたびに、手形の数は増殖していた。

 最初は数個だったものが、十数個になり、やがて硝子戸の下半分を埋め尽くすまでになった。

 大きさも様々だ。赤子のような握り拳、節くれだった老人の指、力強い大人の掌。

 それらは一切の秩序なく、けれど互いに重なり合うことだけは避けるように、隙間を埋め尽くして張り付いている。

 右、左、右、右、左。

 朝露に濡れた硝子越しに見る無数の掌は、こちらの生活を覗き込んでいるようにも、何かを訴えかけているようにも見えた。


 私はホームセンターまで車を走らせ、遮光性の高い厚手のカーテンを購入した。

 だが、視界を遮断しても、事態は好転しなかった。

 朝、カーテンの隙間から漏れ出す光が、あの赤黒い土の色を帯びていることに気づくたび、胃の腑に冷たい石を詰め込まれたような気分になる。

 私は毎朝、日課のようにバケツに水を汲み、無心で硝子を磨き上げた。

 雑巾が泥を吸い、硝子が透明な輝きを取り戻すにつれ、私の精神もまた、辛うじて平衡を取り戻す。


「ここは私の家だ」


 そう呟きながら、汚れた水を庭にぶちまける。

 私の安息を、正体不明の薄汚い何かに汚されたくはない。

 排除しなければならない。すべて、跡形もなく。


 入居から一週間が過ぎる頃には、手形は私の背丈を優に超え、鴨居に近い場所にまで及んでいた。

 足場などない場所だ。人間業ではない。

 あるいは、彼らは宙に浮いているのか。

 一日中、家の中から外を監視してみたこともあった。だが、日中は何も起きない。陽が落ち、漆黒の闇が山を飲み込むと、途端に気配が変わるのだ。

 耳の奥で鳴り続ける不快な音。柱がきしむ音とは違う、何かが外壁に触れ、圧迫しているような気配。


 限界だった。

 私は、集落の入り口で見かけた小さな神社のことを思い出した。あそこになら、この土地の因縁を知る者がいるかもしれない。


 社務所には、あばら家の古さとは対照的に、きちんとした身なりの老神主が詰めていた。

 私が事情を話すと、神主の穏やかだった表情が、見る見るうちに強張っていき、土気色へと変わった。


「……あんた、あの山の際の家に越したんか」

「ええ。安かったもので」

「安いのには訳がある。あの家には古くから棲みついているモノがおる。そしてあそこは、通り道じゃ」


 神主は声を潜めた。その言葉自体が、忌まわしい何かを呼び寄せてしまうと恐れるように。


「通り道、ですか。幽霊の?」

「そんな生易しいもんじゃない。数十年に一度、あるいは百年に一度、山の気が、溢れ出すことがある。その『山通り』の真下に、あの家はあるんじゃ」


 神主の視線が、私の顔を通り越し、背後の空間へと注がれる。老いた瞳には、隠しきれない畏怖が滲んでいた。


「手形がつくと、言ったな」

「はい。毎朝、窓いっぱいに。気味が悪いので、毎日綺麗に拭き取っているんですが、翌朝にはまた……」

「拭いたんか」


 神主の声がかすれた。


「え?」

「あれに触れたんか!」


 突然の怒声に、私は肩を跳ねさせた。

 神主は立ち上がり、社務所の中を落ち着きなく歩き回った。ぶつぶつと何かを唱え、机の上にあった暦のようなものを指でなぞる。

 やがて、彼は決心したように私に向き直った。


「いいか、よく聞け。今夜は嵐が来る。必ず戸締まりをして、部屋の真ん中にいろ。雨戸があるなら閉めろ。ないなら、決して窓に近づくな」

「お祓いをしてくれないんですか? 何か、追い払う方法は……」


 神主は首を激しく横に振った。


「耐えろ」

「は?」

「何もしなくていい。いや、してはならん。ただじっとして、嵐が過ぎるのを耐えて待つんじゃ。戸締まりをして、耳を塞ぎ、目を閉じてやり過ごせ。決して、余計な真似をして刺激するんじゃないぞ、お前さんにできるのは待つことだけじゃ」


 私は言葉を失った。

 耐えろだと?

 あの無数の手形に囲まれて、布団を被って縮こまっていろと言うのか。

 この爺さんは、何も解決する気がないのだ。田舎特有の、波風を立てずにやり過ごす事なかれ主義。よそ者の私がどうなろうと知ったことではないのだろう。


「……わかりました」


 私は形ばかりの返事をして、逃げるように神社を後にした。

 帰りの車中で、冷静さを取り戻すにつれ、腹の底からどす黒い怒りが湧き上がってきた。

 あの手形は、この家に憑く悪霊どもがつけたマーキングに違いない。

 神主も言っていた、棲みついているモノ。あれはきっとそいつらの『ここは俺たちの場所だ』という主張だ。

 それをただ耐えて放置しろなど、敗北を認めろと言っているのと同じではないか。奴らの存在を許容し、私が住んでいる家を明け渡せというのか。


「負けるものか」


 ハンドルを握る指関節が白く浮き上がる。

 私の生活を、私の場所を、訳のわからない因習や迷信ごときに奪われてたまるか。



 その夜、予報通りの嵐がやってきた。

 山全体を揺さぶるような風が吹き荒れ、雨粒が散弾のように屋根を叩く。

 古民家は悲鳴を上げた。

 ガタガタ、ミシミシと、家全体が巨大な生き物の胃袋の中にいるかのように軋む。

 私は八畳間の隅に座り込み、スマートフォンを握りしめていた。

 部屋の照明は点けていない。外の気配をより敏感に察知するためだ。スマートフォンの画面が放つ蒼白い光だけが、私の顔を照らし出している。


 午後九時を回った頃。

 風の音に混じって、別の音が聞こえ始めた。


 ベチャッ。

 ベチャ、ベチャッ。


 湿った肉が、平滑な面に叩きつけられるような音。

 それに続いて、ドン、ドン、と硝子を叩く鈍い音が響く。


 私は画面に視線を落とした。

 検索窓には『悪霊 退散 自分』『強力 結界』『浄化 塩』といった文字列が並んでいる。

 ネットの大海は、オカルト記事に溢れかえっていた。だが、今の私にとって、それらはどれも現実的で、頼もしい解決策に見えた。


「やっぱり、塩だ。清めるんだ」


 私は立ち上がり、台所へ走った。

 買い込んであった一キログラム入りの粗塩の袋を三つ、抱えるようにして持ってくる。

 ネットの記事によれば、不浄なものは塩を嫌うという。部屋の四隅、そして入り口となる場所に盛り塩をし、結界を張ることで、霊の侵入を防げるらしい。

 私はさらに、別のサイトで見つけた「魔を滅する魔法陣」なる幾何学模様を、縁側の板張りの上にチョークで書き殴った。

 円の中に六芒星、その周囲を取り囲む、意味もわからぬ梵字のような記号。

 滑稽かもしれない。誰かが見たら笑うかもしれない。

 だが、恐怖に冷え切った私の手には、これしか武器がなかった。


「入ってくるな……ここはお前の場所じゃない!」


 硝子戸の向こうには、依然としておぞましい数の形が蠢いている。

 雷光が一瞬、庭を照らす。

 硝子戸にびっしりと張り付いた無数の手形。そしてその向こうに、人とも獣ともつかぬ形が重なり合っているのが見えた。

 私はこわばった手で塩を鷲掴みにした。

 硝子戸の内側のレールに沿って、分厚い塩の壁を築いていく。白い結晶が、それらから私を守る結界となる。


「消えろ、消えろ!」


 祈るように叫びながら、私は硝子戸に向かって塩を撒いた。

 バシッ、と塩の粒が硝子に当たる。


 その時だった。


 ジュッ……。


 まるで熱した鉄板に水を垂らしたような音がした。

 塩が触れた箇所、硝子に張り付いていた手形の一つが、白煙を上げて崩れ落ちるように消えたのだ。

 私は目を見開いた。


「効いてる……!」


 確信が、歓喜へと変わる。

 効果は劇的だった。

 私が塩を撒き、内側に結界を強化すればするほど、硝子を埋め尽くしていた赤黒い手形は、苦悶するように震え、次々と霞んで消えていく。

 叩く音も弱まっていった。

 彼らは塩の浄化力に恐れをなし、退散しているのだ。


「見たか! これが人間の知恵だ!」


 私は叫んだ。喉が裂けんばかりの声で。

 あの神主の言うことなど、聞かなくて正解だったのだ。

 耐える必要などない。戦えば勝てる。現代の知恵と、私の意志があれば、どんな怪異も恐れるに足りない。

 私は残った塩を全て、魔法陣の中央と窓際にぶちまけた。

 床に転がったスマートフォンの画面には、「最強の浄化」「悪霊退散」の文字が誇らしげに輝いている。

 それはまるで、私の勝利を祝福する電子の灯火のようだった。


 やがて、最後の手形がふっと消滅した。

 硝子は本来の透明さを取り戻し、叩く音も完全に止んだ。

 部屋には、撒き散らされた塩と、チョークの粉、そして私の荒い息遣いだけが残った。


「勝った……」


 私は膝をつき、安堵の息を漏らした。

 静かだ。

 あれほど吹き荒れていた風の音さえ聞こえない。絶対的な静寂が戻ってきた。

 私は勝利の余韻に浸りながら、綺麗になった硝子戸を見上げた。

 汚れ一つない、透明な硝子。

 私が守り抜いた、聖域の守り。

 その向こうに広がる、夜の庭を見ようとして――


 思考が、凍りついた。


 そこには、庭などなかった。

 闇も、木々も、雨もなかった。

 硝子のすぐ向こう、わずか数ミリの場所に、灰色とも土色ともつかぬ「肉の壁」があった。

 ぶよぶよとした濡れた質感。表面に生えた剛毛。脈打つ青黒い血管。

 それは、家全体を包み込むほど巨大な何かの「体表」だった。

 硝子戸の枠に収まりきらないほどの、圧倒的な質量を持った「何か」が、私の家に、この硝子一枚を隔てて密着している。


 ミシッ。


 硝子が悲鳴を上げた。

 先ほどまでの、拳で叩くような音ではない。

 全体重をかけてゆっくりと押し潰しにかかる、抗いようのない圧力。

 家の骨組みが軋み、壁が裂ける音が、耳ではなく骨に直接響いてくる。


「な、なんだ……これは……」


 私は後ずさりしようとした。だが、床に撒き散らした塩とチョークの粉に足を取られ、無様に転んだ。


 ズズ、ズズズ……。


 巨大な質量が、硝子に擦りつけられる音がする。濡れたゴム同士が擦れ合うような、生理的な嫌悪感を催す音。

 その動きに合わせて、肉の壁の一部がゆっくりとめくれ上がった。


 現れたのは、巨大な眼球だった。


 直径だけで一メートルはあるだろうか。濁った黄色の白目。縦に裂けた瞳孔。

 その瞳が、硝子越しに、スマートフォンを握りしめて硬直した私と、床に描かれた拙い魔法陣を捉えた。

 知性など微塵も感じられない。あるのは、底なしの食欲と、圧倒的な悪意のみ。

 その目は、あざ笑っていた。

 私の浅はかな抵抗を。私の滑稽な勘違いを。


 その瞬間、稲妻に打たれたように、私は理解した。

 あの手形たちの意味を。


 毎朝、硝子についていた泥。あれは汚れではなかった。

 内側から必死に、外からの圧力を押し返そうとしていた、何者か――この家に棲みついていた小さな守り神たちの奮闘の痕跡だったのだ。

 彼らは、子供のような小さな手で、あるいは年老いた手で、皆で力を合わせてこの硝子を支えていた。


「入ってくるな」と私を脅していたのではない。

「押し潰されるぞ」と、崩壊を食い止めていたのだ。


 たしかに神主は言った。『耐えろ』と。『手出しをするな』と。

 それは、彼らの防衛戦を邪魔するなという意味だったのだ。嵐が過ぎ去るまで、彼らに任せておけという警告だったのだ。


 私が「悪霊」だと決めつけ、ネット知識の塩で浄化し、消滅させたもの。

 それこそが、この家を「山通り」の脅威から守る唯一の結界だったのだ。

 しかし、私は自らの手で、守護者たちを「除霊」してしまったのだ。


「あ、ああっ……」


 喉の奥から、空気が漏れるような音が漏れた。

 指先から力が抜け、スマートフォンが手からこぼれ落ちた。

 画面にはまだ『誰でもできる簡単お祓い』の文字が光っている。

 簡単なはずだ。私はたった今、自分を守っていた最後の盾を、あまりにも簡単に排除してしまったのだから。


 ピシリ。


 硝子の中央に、蜘蛛の巣のようなひびが入る。

 透明な硝子にはもう、私を守る手形は一つもない。

 私の顔が映っていた場所に、白い稲妻のような線が走り、外の巨大な眼球が、あざ笑うかのように歪んだ。


 バリィィィィン!!


 轟音と共に、硝子が弾け飛んだ。

 破片が外へ飛び散るのではない。爆風のような勢いで、すべてが「内側」へ、つまり私の方へと降り注いだ。

 鋭利な刃物となった硝子の礫が、全身に突き刺さる。

 悲鳴を上げる間もなかった。

 硝子の破片と共に、生暖かい腐臭を放つ風と、濡れた巨大な肉の塊が、押し潰すように圧し掛かってきた。


 家が、ひしゃげる音がする。

 柱が折れ、天井が落ちてくる。

 私が築いた塩の堤防など、一瞬で飲み込まれ、魔法陣は肉塊の下で無意味な落書きへと変わる。

 塩の清らかな匂いが、獣の体臭と山の腐敗臭にかき消されていく。


 私は肉の波に飲まれ、粘液にまみれた床を転がった。

 必死に逃げようと手足をばたつかせるが、圧倒的な質量が私を床に押し付け、自由を奪う。

 呼吸ができない。

 肺が圧迫され、肋骨が軋む。


 ふと、瓦礫の下から、小さな手が一つ見えた。

 半透明で、儚げな子供の手だ。

 それは私に向かって差し出されていたのではなく、崩れ落ちる壁を支えようとして、力なく垂れ下がっていた。

 私が洗い流し、塩で焼き払ってしまった、守り神の成れの果て。


「たすけ――」


 言葉は、湿った巨大な肉塊に飲み込まれた。

 視界が暗転する直前、不動産屋の言葉が、走馬灯のように脳裏をよぎる。


『自然に囲まれた、静かな場所ですよ』


 確かに、自然だ。

 人間などという異物が入り込む余地のない、荒々しく、残酷なまでの大自然そのものが、今、私を消化しようとしていた。


 意識が遠のいていく。これが、最後の――

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