第13話
決意をもって眠りにつく。
廊下は静かだ。
蛍光灯は規則正しく並び、光と影がまだらに伸びている。
中央の線が、淡く光っていた。
――ここから先は、戻れない。
前に立つのは、夢の中の彼女――みひろ。
白いワンピース。
目は、迷いなく俺を見ている。
「かずし……」
彼女の声は、柔らかく、けれど重かった。
「ここは、置き去りにした自分たちの世界。
線を越えたら、もう戻れない」
線の向こう。薄暗い空間に、白い影がゆらりと立つ。
――かつての自分、選ばなかった自分。
目が合うと、胸の奥がひりついた。
あの時、好きだった。
でも何も言わなかった。
踏み込まなかった。
その感情が、まだここにいる。
みひろは、境界線の手前で立ち止まる。
「私は戻る。現実へ」
線の向こうには触れない。
でも視線が俺に届く。
その瞳に、過去の私が重なった。
――助けてほしい、でも現実を壊したくない。
踏み出すか、戻るか。
決断は、俺の手にある。
胸が締めつけられる。
過去の自分が、息をひそめて見つめる。
置き去りの自分、失われた恋、選ばなかった未来。
だが、現実もある。
ベッドで眠る家族、笑う子ども、穏やかな日常。
ここを離れれば、すべて消える。
「……戻らなきゃ」
決めた瞬間、足が線を踏み出さなかった。
浮きそうな感覚が体を包むが、意識は揺れない。
廊下の光が一斉に明滅する。
線の向こうの影が、ゆっくりと消えていく。
みひろが微笑んだ。
「あなたの選んだ場所に行って」
重力が戻る。
床が足裏にしっかりと触れる。
胸の奥に、置き去りの自分が溶けるように消えていく感覚。
痛みも、寂しさも、残らない。
ただ、現実の重さが、確かにここにある。
目を開けると、会議室の自分の席だった。
スマホも、通知も、静かだ。
でも、胸の奥には温かさがあった。
――選ばなかった自分を認め、
それでも現実を選んだ。
それが、正解かどうかはわからない。
でも、これが今の自分の場所だ。
窓の外、朝日がゆっくり昇る。
線は消えた。
廊下も、赤茶色の絨毯も、もうここにはない。
ただ、忘れられない感覚だけが、残っている。
目を閉じると、もう夢の廊下は現れない。
境界の向こうにいた自分も、もう手の届かない過去だ。
でも、確かなことが一つある。
――俺は、戻ってきた。
そして、現実を生きる。
ゆっくりと息を吸い込み、椅子から立つ。
朝の光に、体を委ねる。
選ばなかった過去は消えない。
でも、もう追いかける必要はない。
今日は、新しい一日の始まりだ。
『やっと、思い通りの夢が描けたよ』
さようなら、みひろさん。
ゆっくりと息を吸い込み、椅子から立つ。
朝の光に、身体を委ねる。
ふと、右腕に違和感を覚えて袖を捲り上げた。
そこにはまだ、あの指の痕が、黒ずんだ痣となって残っていた。
夢が終わり、境界が消えた今になっても、
なぜこの痣だけが消えないのか、その理由はわからなかった。
けれど、痛みはもうない。
僕はその痕を愛おしむように指でなぞり、
誰にも見えないように袖を下ろした。
『この痕っていつできたんだっけ? 』
完
境界線のホテル――なんでも許される夢の中で、君は僕を愛してくれる 厚焼 @sonlan
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