第12話
眠りに落ちる瞬間、抵抗はなかった。
ただ、静かに足が床へ着いた。
赤茶色の絨毯。
蛍光灯。
同じ長さの廊下。
けれど今回は、はっきりと違いがあった。
中央の境界線が、淡く光っている。
まるで、「ここまでだ」と告げるように。
「……来てくれたんだ」
声がして、顔を上げる。
みひろが立っていた。
白いワンピース。
夢の中の姿。
けれど、以前と違う。
迷いがなかった。
「大丈夫なのか、ここに来て」
「本当は、来ちゃいけない」
そう言って、彼女は境界線の手前に立った。
一歩も、越えない。
「でも、話さないといけないことがある」
俺は喉の奥がひりつくのを感じた。
「……あのメッセージ。俺はどっちのみひろなんだ」
みひろは、すぐには答えなかった。
廊下の壁に、扉が一つ浮かび上がる。
ノブも番号もない、ただの白い扉。
「この向こうにいるの」
彼女は言った。
「“かずしが好きだった私”が」
心臓が、強く打った。
「……それ、どういう」
「私は、諦めたの」
みひろの声は、驚くほど落ち着いていた。
「あなたには彼女がいたから」
言葉が、胸の奥に沈む。
「だから、何も言わなかった。
好きだって気持ちを、選ばなかった」
扉の向こうから、かすかな気配が伝わってくる。
息を潜めるような、感情の残響。
「そのあとで、今の旦那と出会った」
彼女は微笑んだ。
「優しくて、安心できて。
未来を一緒に考えられる人だった」
「……愛してるのか」
「うん」
迷いのない返事。
「結婚した。
子どももできた。
私は、今の人生をちゃんと生きてる」
その言葉が、なぜか痛かった。
救いでもあり、断絶でもあったからだ。
「じゃあ……あの部屋にいるのは」
「私」
みひろは、はっきり言った。
「でも、“今の私”じゃない」
彼女は境界線に指先を伸ばす。
触れる直前で、止めた。
「諦めた瞬間に、置いてきた私。
好きだった気持ちを、行き場のないまま切り離した私」
蛍光灯が、かすかに明滅した。
「感情ってね、消えないの」
声が、少しだけ震える。
「選ばれなかっただけで、存在しなくなるわけじゃない」
扉の向こうから、かすかな足音。
誰かが、こちらを見ている。
「この廊下は、そういう感情の行き先」
「……だから、俺はここに来たのか」
みひろは、ゆっくり頷いた。
「あなたは今、何も選べなくなってる」
胸に突き刺さる言葉だった。
「恋でもなく、未来でもなく、
現実に足場を持てないまま、立ち止まってる」
境界線が、わずかに広がった。
越えようとしている。
「あなたは、ここに居続けると――
“選ばれなかった側”になる」
俺の脳裏に浮かんだのは、
会議室で眠っていた自分。
動かない身体。
「それは、私がいた場所」
みひろが言った。
「だから、連絡した」
彼女は、まっすぐ俺を見た。
「助けたいのは、あなたじゃない」
静かな声。
「あなたを引き寄せている、私自身を終わらせたかった」
扉が、きしりと音を立てる。
中から、白い影が滲み出す。
若い女の輪郭。
泣いてもいない。
笑ってもいない。
ただ、こちらを見ている。
――みひろだった。
少し昔の。
何も選ばなかった頃の顔。
「行かなきゃ」
みひろは一歩、前に出る。
境界線の上で、止まる。
「私は戻る。現実へ」
「待て!」
思わず声が出た。
「それ、消えるってことじゃ」
「違う」
彼女は首を振った。
「抱えていくの」
そう言って、胸に手を当てた。
「なかったことにしない。
でも、居場所はここじゃないって、教える」
い影が、ゆっくりと彼女へ近づく。
触れ合う瞬間、強い光が走った。
廊下が揺れる。
扉が、次々と消えていく。
赤茶色の絨毯が、ほどけるように崩れた。
「かずし」
最後に、彼女が呼んだ。
「あなたは、まだ選べる」
境界線が、細くなる。
「立ち止まらないで」
世界が反転した。
目を開けると、自分の部屋だった。
朝の光。
寂しさでも、恋でもない。
――選ばなかったものを、理解した痛み。
それでも、足元は現実にある。
俺は、まだ戻れている。
だが、廊下は消えていない。
選ばれなかった感情がある限り、
あの部屋は、きっとどこかに残り続ける。
問題はただ一つ。
次に眠るとき、
俺はどこへ立っているのか。
境界の、どちら側なのか。
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