第11話
夜中、ふと目が覚めた。
隣を見ると、夫が眠っている。
無防備な寝顔。
静かな寝息。
この人と結婚した。
この人の子どもを、今お腹に宿している。
私は、今の人生を選んだ。
それは迷いの末じゃない。
逃げでもない。
ちゃんと、好きになって。
ちゃんと、望んで。
だから、後悔はない。
――ないはずだった。
目を閉じると、あの部屋が浮かぶ。
なんとなく夢を見ている気がする。
赤茶色の絨毯。
同じ長さの廊下。
閉じた扉。
止まった夜。
あそこにいる“私”は、いつも同じ顔をしている。
かずしを見ていた頃の私。
彼が笑えば、少しだけ嬉しくて。
名前を呼ばれるだけで、胸が熱くなって。
でも、その時――
彼には彼女がいた。
だから私は、諦めた。
何も言わなかった。
踏み出さなかった。
「好きだった私」は、声を出す前に終わった。
それが大人だと思った。
選ばれなかった感情は、
なかったことにすればいいと信じた。
その後で、今の夫と出会った。
安心できて、誠実で、
一緒にいる未来が想像できた。
私は恋をした。
結婚した。
子どもを授かった。
幸せだ。本当に。
なのに。
あの廊下で見た“彼女”は、私を見ていた。
境界の向こうで、立ち尽くして。
――私は、ここにいる。
そう言いたげに。
分かってしまった。
あの部屋にいるのは、幽霊でも幻でもない。
かずしが好きだった私。
諦めた瞬間、置いてきた感情。
選ばれなかった未来。
前に進むために、
振り返らずに切り離した“私自身”。
今の私は、旦那が好きだ。
家庭がある。
守りたい命がある。
でもそれと同時に、
あの子を見捨てたまま、生きてきた。
だから、あの廊下は消えなかった。
行き場を失った感情だけが、
集まる場所だったから。
産休前日、フロアでかずしを見た。
彼の足元に、線があった。
境界。
そして彼は、あの部屋へ落ちかけていた。
――私と同じ場所へ。
その瞬間、理解した。
彼が引き寄せられているのは、
夢でも狂気でもない。
あの時、何も選ばなかった私が、まだそこにいるからだ。
連絡してはいけない。
そう分かっていた。
私はもう、彼の人生に関わる立場じゃない。
でも。もし彼があの部屋に取り込まれたら、
“好きだった私”は、永遠に救われない。
だから、送った。
《あの部屋で、待ってる》
それは恋の言葉じゃない。
助けたいのは、彼じゃない。
あの部屋にいる、私自身だ。
隣で夫が寝返りを打つ。
私は、ここにいる。
現実にいる。
でも同時に、かずしを好きだった
私は、まだあの廊下に立っている。
人生は、一つしか選べない。
選ばれなかった私たちは、
どこへ行くのだろう。
その答えが、
あの部屋なのだとしたら
私は、初めてあの線を越える覚悟をした。
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