第10話

会社に着くと、

みひろの席は、もう空だった。

私物も、椅子も、すべて片付けられている。

そこだけ、床がやけに広く感じられた。


昼休み、誰もいない会議室で目を閉じた。

眠るつもりはなかった。

ただ、確かめたかった。

――あの場所に、もう一度行けるのか。

 

意識が落ちる直前、はっきりとした感覚があった。

次の瞬間、俺は立っていた。

赤茶色の絨毯。

あの廊下。

だが、今日ははっきり違いが分かった。

絨毯の中央を、一本の線が走っている。

色が違うわけじゃない。

盛り上がっているわけでもない。

なのに――

「ここから向こうは、踏み心地が違う」

みひろの声がした。

振り返ると、彼女は境界線の手前に立っていた。

「分かる?」

試すように聞かれる。

俺は片足を前に出した。

境界を越えた瞬間、

足裏の感覚が、すっと消えた。

柔らかいはずの絨毯なのに、

床が“無い”。

「……浮いてる」

「うん」

みひろは頷いた。

「ここが“絨毯の境界”。

 夢と現実を縫い合わせてる、縫い目」

俺は足を戻す。

感覚が、戻る。

「この廊下はね」

彼女はゆっくり言った。

「現実で“行き場を失った感情”だけで作られてる」

失恋。後悔。

言えなかった言葉。

選ばれなかった未来。

「それが溜まると、現実の世界に居場所をなくす人が出る」

「……俺みたいに?」

みひろは、否定しなかった。

「その人たちが眠ると、

 心が“同じ重さの場所”に落ちてくる」

「それが、この廊下?」

「そう」

彼女は絨毯を指差した。

「だから全部、同じ柄。同じ長さ。

 同じ照明。」

均一であることが、条件。

違いが生まれると、世界が壊れる。

「境界の向こうは、もう“現実の重さ”がない」

彼女はそう言って、線の向こうに足を踏み出した。

「長くいると、人は戻れなくなる」

「……戻れないと、どうなる」

「現実の体が“空く”」

人の形をした影が、脳裏をよぎる。

「だから、回収が来る」

その言葉と同時に――

遠くで、蛍光灯が一つ、消えた。

ぱち。

また一つ。

「均衡が崩れた時に現れる」

みひろの声が低くなる。

「境界を越えすぎた人を、

 世界から切り離すために」

「切り離す……?」

「夢にも現実にも属さないものにする」

ぞっとした。

それは死よりも、名前のない状態だった。

「ねえ、かずし」

彼女が初めて、俺の名前をはっきり呼んだ。

「あなた、もう境界を越えてる」

胸が重くなる。

彼女は、悲しそうに微笑んだ。

「“選ぶ権利”がなくなってくる、もう無理、

早く戻って!! 」

「……どういう」

答える前に、照明が一斉に明滅した。

空気が、ひしゃげる。

廊下の奥。

あの影が、再び滲み出してくる。

「来た……!」

みひろが叫ぶ。

「走って! 境界の内側へ!」

俺は全力で走った。

だが――

足が、重い。

境界線が、遠い。

影が、すぐ背後まで迫る。

そのとき。

みひろが、俺の前に立った。

「なにして……!」

「越えちゃだめ」

彼女は、境界の向こう側にいた。

「ここは、あなたの場所じゃない」

「一緒に来い!」

「私は、もう――」

影が、彼女の足首に触れた。

世界が軋む。

「忘れないで」

彼女は、はっきりと言った。

「忘れないでくれれば、私は消えない」

次の瞬間。

廊下が、裏返った。

目を覚ますと、会社の会議室だった。

机に突っ伏したまま、眠っていたらしい。

腕の痕が、少し濃くなっている。

胸の奥には、焼けるような焦りが残っていた。

まるで――誰かが、現実の向こうから必死に叩いているみたいに。

スマホには、新しい通知。

《未読:一ノ瀬みひろ》

震える指で開く。

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