第9話
目を閉じた瞬間、落下する感覚があった。
眠りに沈む、というより――
引きずり込まれる。
耳鳴り。
心臓の鼓動が、やけに大きい。
そして次の瞬間、俺は立っていた。
あの廊下だ。
赤茶色の絨毯。
天井の蛍光灯。
規則正しく並ぶ、閉じた扉。
止まった夜。
だが、今日は違った。
蛍光灯が、ひとつおきに消えている。
光と影が、まだらに床を切り分けていた。
「……みひろ?」
声が、やけに反響する。
返事はない。
代わりに――
背後で、かすかな足音がした。
振り返る。
そこに彼女はいた。
夢の中のみひろ。
白いワンピース。素足だった。
あの、現実では二度と触れられない姿。
「……来ちゃったんだ」
彼女は、少し困ったように笑った。
「今日は、だめだって言ったのに」
「どういう意味だよ」
近づこうとした瞬間、視界が揺れた。
廊下の壁が、呼吸するみたいに脈打つ。
「現実が、薄くなってる」
みひろが言った。
「あなた、今日……私と話そうとしたでしょ」
ここにもう長くいないで。
背筋が冷える。
「聞こえた」
「なら、もう限界なんだと思う」
彼女はそう言って、俺の胸に指を当てた。
触れた瞬間。
どくん、と何かが跳ねた。
「ここ。もう半分、こっちに来てる」
「……戻れないのか?」
問いかけると、彼女は首を振った。
「戻れる。でも」
一拍、間。
「戻るなら、私を置いていくことになる」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「置いていくって……ここのみひろは、消えるのか?」
「ううん」
彼女は、少しだけ微笑んだ。
「忘れるの」
その言葉が、刃のように刺さった。
忘れる。
夢の彼女を。あの部屋を。触れた温度を。
「……できない」
即答だった。
すると、後ろで―
がちゃり と音がした。
違う部屋の扉が、勝手に開いた。
中から、冷たい風が吹き出す。
「開いちゃった」
みひろの声が震える。
「ねえ、かずし。見ちゃだめ」
止める間もなく、俺は扉の中を見た。
そこにあったのは――
会社のフロアだった。
昼休みの食堂。
テレビでは、子育て特集。
同じ映像。
同じ音。
だが、違う点が一つだけあった。
画面の端に映る自分。
俯いて座り、
箸を持ったまま、完全に静止している。
瞬きもしない。
呼吸も、していないように見えた。
「……俺、死んでるのか?」
「違う」
みひろは首を振る。
「“空いてる”だけ」
ぞっとした。
「魂が、ここに来てる間。
向こうのあなたは、殻みたいになる」
「そんな……」
「今日、現実でフラついたでしょ」
思い当たる。
会議中。
電車の中。
鏡の前。
「このまま続くとね」
彼女は静かに言った。
「ある日、戻れなくなる」
廊下の照明が、一斉に明滅した。
ぱち、ぱち、と不規則に。
「だから、選ばなきゃいけない」
「何を」
みひろは、まっすぐ俺を見た。
「現実に戻るか」
それから、そっと俺の手を握る。
「私と、ここに残るか」
触れた瞬間、温度が流れ込んできた。
あまりにも確かで、あまりにも生きていた。
「もし残ったら?」
「あなたは夢の住人になる」
「それは……生きてるって言えるのか?」
彼女は答えなかった。
ただ、悲しそうに笑った。
そのとき――
廊下の奥から、別の足音が響いた。
重い。
ゆっくり。
人のものではない歩き方。
「……来る」
みひろが、俺の腕を引く。
「なにが?」
みひろは、答えなかった。
ただ、強く俺の腕を掴む。
「長く居すぎた人を――
連れていくもの」
影が、曲がり角から滲み出してくる。
人の形をしているのに、顔がない。
蛍光灯が、次々と破裂した。
「逃げるぞ!」
走り出した瞬間――
俺の右腕に、鋭い痛みが走った。
何かに、掴まれた。
引き剥がすように振り払う。
次の瞬間、世界が裏返った。
目を開けると、自分の部屋だった。
朝の光。
スマホのアラーム。
現実。
荒い息を吐き、腕を押さえる。
――痛い。
袖をまくると、そこにあった。
黒ずんだ、指の跡。
まるで、誰かに強く掴まれたような痕。
夢の傷が、現実に残っていた。
みひろの言葉も。
「……境界」
呟くと、喉がひりついた。
出社の準備をしながら、俺は何度も床を見た。
フローリングの継ぎ目。
玄関マットの端。
無意識に、“境目”を探している自分に気づく。
スマホが震える。
通知。
《みひろさん、本日より産休に入ります》
―境界を、越えている自覚が自分を襲う。
この世界は、俺の世界じゃない。
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