第8話
朝、洗面所の鏡を見て、違和感に気づいた。
右目の下に、うっすらとした影が張りついている。
寝不足のクマというより、
皮膚の内側に沈んだ染みのようだった。
昨夜は、ちゃんと眠ったはずなのに。
蛇口をひねる。
水の音が、やけに遠く聞こえた。
顔を洗い、もう一度鏡を見る。
今度は、ほんの一瞬だけ――
自分の動きより、映像が遅れたような気がした。
「……気のせいか」
そう呟いた声だけが、やけに現実的だった。
出社すると、フロアの空気がいつもと違っていた。
柔らかい。
妙に、明るい。
みひろのデスクの周りに、
女性社員が数人が集まっている。
「男の子か、女の子かもう分かるんですか?」
弾んだ声。
「内緒! 旦那にも言ってないの」
「キャー! 」
高い笑い声が、軽やかに跳ねる。
俺はその輪の少し後ろ、コピー用紙の補充棚の陰に立っていた。
ちょうど、ゴミ捨て場の前だった。
生ゴミの袋から、酸っぱい匂いが漂ってくる。
コーヒーの残り香と混ざり、胸の奥がむっとする。
みひろが笑っている。
その横顔を、俺は初めて「母親になる人」として見ていた。
夢の中の彼女とは、まったく違う輪郭。
少し丸くなった頬。
ゆったりしたマタニティ用のブラウス。
無意識に、お腹へ添えられる手。
誰かが言った。
「旦那さん、妊娠がわかった時、
どんな反応でした?」
みひろは少し照れたように笑う。
「泣いてました。」
周囲が、また笑った。
祝福の中心。
未来の会話。
そこに、俺の立ち位置はない。
黒いゴミ袋を握る自分の指が、妙に生々しく見えた。
この袋の中身と、俺は今、同じ側にいる。
そんな馬鹿げた考えが浮かび、吐き気がした。
誰にも気づかれないように、その場を離れた。
午前中の会議中、何度も意識が飛んだ。
画面の数字の意味がわからない。
上司の声が、水の底から聞こえてくるみたいだった。
「青松くん?」
俺は、名前を呼ばれ、慌てて顔を上げる。
「……すみません」
謝りながら、自分の手を見る。
震えていた。
理由が分からない。
寒くもないのに、指先の感覚が薄い。
昼休み、食堂のテレビでは子育て特集が流れていた。
「赤ちゃんの名前ランキングです」
アナウンサーの明るい声。
箸が止まる。
無意識に、みひろの笑顔を思い出してしまう。
夢の中の彼女は、未来の話を、しなかった。
あの部屋には、いつも“今”しかなかった。
午後、資料を届けるため、みひろの席へ向かった。
デスクの端に、小さなお守りが置かれている。
「安産祈願」
金色の文字。
現実の重さが、そこにあった。
「一ノ瀬さん」
声をかけられ、顔を上げる。
「お疲れ様です。これ、引き継ぎ資料です」
みひろから、差し出された紙の束。
指先が、ほんの一瞬だけ触れた。
冷たい。
夢の中で感じていた、あの体温とは違う。
彼女は、俺をどうみているんだ。
その瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、言葉になって零れた。
「……そこにいるんですか?」
みひろの手が、ぴたりと止まった。
「……え?」
困惑した声。
当然だ。
この言葉は、現実の彼女に向けたものじゃない。
俺の中にいる、もう一人の彼女に向けた問いだった。
「……すみません。独り言です」
慌ててそう言うと、彼女は小さく笑った。
「お疲れですね。無理しないでください」
優しい言葉。
でもその優しさは、誰にでも向けられるものだった。
「そういえば、飲みに行く約束してましたけど、
子供産まれてからいきましょうね!約束ですよ!」
「え? あ、そうだね!」
「ちょっと! 忘れてましたね?」
「いや、」
「私が戻ってくる頃には、
青松さん、もう遠くに行ってそうですね」
それは俺の出世を意味していた。
本社に行ってしまうと言いたいのだろう。
帰宅途中、電車の窓に映る自分の顔を見た。
クマは、朝よりも濃くなっている。
まばたきをすると、一瞬だけ、照明が点滅した気がした。
脳裏に、あの廊下が浮かぶ。
同じ絨毯。
同じ光。
止まった夜。
ポケットの中で、スマホが震えた。
会社のチャット。
《みひろさん、明日から時短勤務となります》
現実は、確実に前へ進む。
俺を置き去りにしたまま。
部屋に戻り、スーツを脱ぐ。
ベッドに腰掛けた瞬間、視界がわずかに揺れた。
眠気ではない。
引き寄せられる感覚。
まるで、重力の向きが少しずつ変わっていくみたいだった。
鏡の前に立つ。
そこに映る自分は――
ほんの少しだけ、輪郭がぼやけて見えた。
「……まだ、戻れるよな」
誰にともなく呟く。
返事はない。
ただ、耳の奥で、あの声が蘇る。
――長くいないで。
ベッドに横になり、目を閉じる。
眠るためじゃない。
確かめるためだ。
現実に、自分の居場所が本当に残っているのかを。
そしてもし――
もう半分、向こう側に足を踏み入れているのなら。
あの廊下の照明は、今夜も俺を待っている。
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