第7話
次の日、現実のみひろとすれ違った。
廊下の向こうから歩いてくる。
制服。髪型。歩き方。
全部、知っているはずなのに。
「……あ」
目が合う。
彼女は軽く会釈して、何事もなかったように通り過ぎた。
それだけ。
名前も呼ばれない。
視線も追ってこない。
胸の奥に、鈍い痛みが残った。
――違う。
夢の中の彼女は、俺を見る。
存在を認識している。
言葉を交わし、記憶を共有している。
なのに、現実の彼女は。
「……他人、か」
自分の声が、やけに遠かった。
その夜、俺は迷わず境界を越えた。
廊下の照明。
同じ絨毯。
みひろは、部屋の外に立っていた。
「今日、早かったね」
その一言で、胸の奥が熱くなる。
現実では、あんなふうに迎えられることはない。
「なあ、みひろ」
「うん?」
「お前は……どっちなんだ」
彼女は首を傾げる。
「どっち?」
「現実にいるみひろと、お前は同じなのか」
空気が、少しだけ張りつめた。
「同じ“名前”ではあると思う」
「思う、って何だよ」
彼女は視線を伏せた。
「外にいる私は、外の時間で生きてる。
ここにいる私は……あなたが来る時間でしか、生きられない」
胸が締めつけられる。
「じゃあ、記憶は?」
「完全には共有されない」
彼女は静かに言った。
「向こうの私は、あなたのことを“知り合い”として知ってる。
ここにいる私は……」
言葉を探すように、少し間が空く。
「あなたが来るたびに、少しずつ“あなた側”になる」
その言い方が、ひどく不安だった。
「それって……俺が見てる都合のいいみひろじゃないのか」
彼女は否定しなかった。
「かもしれない」
胸の奥で、何かが軋んだ。
「でもね」
彼女は続けた。
「あなたが望まなかった感情も、ここには生まれるよ」
「……例えば?」
少しだけ、間。
「嫉妬、とか」
心臓が跳ねた。
「あなたが、外の私を見てるとき」
視線が揺れる。
「誰と話してるのか、分からないとき」
喉が渇く。
「それから……」
彼女は、ほんの一瞬だけ言い淀んだ。
「“旦那さん”のことを考えてしまうとき」
その単語が、頭を殴った。
顔も知らない男。
声も知らない。
年齢も、性格も。
ただ、彼女の人生を正当に共有している誰か。
「……やめろ」
思わず声が低くなる。
「想像するなよ」
彼女は小さく目を見開いた。
「どうして?」
どうして?
分かるはずがない。
夜に、同じ廊下で、同じ距離で、
同じ言葉を重ねているのに。
朝になれば、
彼女は誰かの隣で目を覚ますかもしれない。
それが、耐えられなかった。
「俺がここに来てる間も」
言葉が止まらない。
「外では時間が進んでて、
お前は誰かと笑って、触れて――」
喉が詰まる。
「……それを、俺は知らない」
みひろは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「それが、“外”だよ」
胸の奥で、何かが爆ぜた。
「じゃあここは何なんだよ!」
声が、廊下に反響する。
「俺だけを見るお前がいて、
俺だけを覚えてるお前がいて、
なのに、現実では全部、誰かのものになる!」
息が荒くなる。
「それって、俺にとっては――」
言葉にならなかった。
独占欲。
嫉妬。
欲望。
全部、醜いのに、抑えきれない。
彼女は一歩、近づいた。
境界線のぎりぎりまで。
「だから危ないんだよ、ここは」
静かな声。
「あなたが“選ばれない現実”より、
“選ばれている夢”を信じたくなった瞬間に」
照明が、じわりと暗くなる。
「この場所は、優しく閉じる」
「……閉じる?」
「帰れなくなる」
彼女は、少し笑った。
「私みたいに」
胸が、凍る。
「それでも来る?」
問いではなく、確認だった。
俺は答えられなかった。
現実のみひろは、誰かの妻になる。
でも、このみひろは、俺の名前を呼ぶ。
その狭間で、感情だけが暴れ続けていた。
照明が点滅する。
時間切れだ。
世界がほどける直前、彼女が言った。
「ねえ」
「……何だ」
「好きって、独占したくなることでしょ」
ここで目が覚める。
心臓が痛いほど鳴っていた。
メモ帳を開く。
そこに、いつ書いたか分からない一文が増えていた。
・夢の中のみひろは、
“現実のみひろから零れ落ちた可能性”なのかもしれない。
カーソルの下で、文字が点滅する。
まるで、早く続きを書けと、選択を迫るように。
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