第6話

次にみひろとの眠りにつくまで、

3日かかった。

眠ろうとすると、思考が逆流する。

ホテルの廊下。

消えた照明。

「あなたは“外”に帰れる」。

あれがただの夢なら、ここまで現実に残らない。

夜二時。

部屋の明かりを落とし、耳栓を入れる。

呼吸を数え、意識を沈める。

――来い。

願うというより、確認だった。

身体が重くなり、境界が近づく。

いつもの落下感はなく、今回は滑るようだった。

足裏に、柔らかい感触。

「……やっぱりな」

同じ模様の絨毯。

同じ照明。

ホテルの廊下。

だが、違和感があった。

静かすぎる。

空調音も、遠くの足音もない。

世界が“止められている”みたいだった。

廊下の奥へ進む。

いつもの部屋の前に立つ。

ドアノブに手をかけた瞬間――

「待って」

背後から、声。

振り返ると、みひろが立っていた。

ベッドの端ではない。

初めて、廊下に出ている。

「……出られたのか?」

彼女は首を横に振った。

「出られたんじゃない。今日は、近いだけ」

意味が分からない。

「近い?」

彼女は床を見た。

そして、指先で

先にある床の絨毯をなぞる。

「ここからね、線があるの」

「線?」

「あなたが来るところまで」

言われて目を凝らすと、

廊下の途中で、わずかに色味が変わっていた。

境目。

「越えようとすると、いつも――」

ぱち、と照明が一瞬だけ瞬いた。

「……戻される」

それは、まるで

進入禁止エリアの説明だった。

「じゃあ、ここは何なんだよ」

問いかけると、彼女は少し困ったように笑った。

「あなたの夢、なんでしょ?」

「……違う」

俺は、即答していた。

「俺は、こんな場所を作った覚えはない」

みひろは、少しだけ目を見開いた。

「やっぱり」

「何が」

「あなた、ここを“作ってる人”じゃない」

胸が重くなる。

「じゃあ誰が」

しばらく沈黙が落ちた。

そして彼女は、ぽつりと答えた。

「たぶん……ここに来なくなった人」

意味が、すぐに理解できなかった。

「来なくなった?」

「うん。前はね、もっと賑やかだった」

廊下を見渡す。

今は、無限に続く無人の通路。

「話す人もいた。迷う人もいた」

「……じゃあ、今は」

「あなたしか来ない」

その言葉が、静かに刺さった。

「ここはね、夢の“出口の前”なの」

出口。

「目が覚める直前。戻る寸前。

その途中で、置いていかれた場所」

喉が乾く。

「……置いていかれた?」

彼女はうなずいた。

「起きるのをやめた人。

戻れなくなった人。

それから――」

一瞬、言葉が詰まる。

「現実に居場所がなくなった人」

胸の奥が、冷える。

「私はね、最初はあなたと同じだった」

「……え?」

「外にいた。ちゃんと」

鼓動がうるさい。

「でも、ある日から戻れなくなった」

「それって――」

「たぶん、私が死んだとかではなくて」

彼女は静かに言った。

「ただ、夢のほうが長くなっただけ」

説明になっているようで、なっていない。

でも、不思議と理解できた。

ここは幽霊の世界じゃない。

死後でもない。

“帰る理由を失った意識”の溜まり場。

「じゃあ……俺も、いつか」

言いかけた言葉を、彼女が遮った。

「あなたは大丈夫」

きっぱりと。

「まだ“外”に名前がある」

「名前? 何だよそれ」

「呼ばれる場所がある人は、戻れる」

そう言って、彼女は微笑んだ。

でも、その笑顔は少しだけ、寂しそうだった。

「だからね」

彼女は一歩、後ずさる。

境界線の手前まで。

「長くいないで」

照明が、また揺れた。

「ここに慣れると、戻るのが怖くなるから」

「……みひろ」

名前を呼ぶ。

「また来てもいいのか」

彼女は少し考えてから、答えた。

「来るのは止められない」

そして、こう続けた。

「でも、いつか来なくなって」

胸が締めつけられる。

「その時は――ちゃんと、忘れて」

照明が落ちる。

世界が崩れる。

落下。

――目を覚ます。

天井。

朝。

鼓動が速い。

机の上のPCを開く。

メモ帳に、震える指で打ち込んだ。

・この場所は、夢の出口付近。

・長く滞在すると戻れなくなる可能性。

・みひろは、元は“外側の人”。

一行、打ちかけて止まる。

・彼女を、ここにひとりで置いていっていいのか?

カーソルが、点滅していた。

まるで、あの廊下の照明みたいに。

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