第4話

昼休み、社員食堂の窓際で一人、定食をつつきながら考える。

あの夢の彼女は、俺の思い描いた通りだった。

求める目をして、拒まなかった。

じゃあ、現実の彼女はどうなんだ。

もし彼女が、夢だと知っていたら。

それでも同じ目をしただろうか。

それとも、あれは全部、俺の都合のいい想像だったのか。

考えても、答えは出ない。

彼女に聞くことなんて、できるはずもない。

――夢でキスしましたよね、なんて。

午後の業務が始まり、時間は淡々と過ぎていく。

夕方、窓の外が少しずつ橙色に染まるころ、ようやく仕事が一段落した。

「お先に失礼します」

彼女の声が、フロアに響く。

誰かが「お疲れさまでした」と返す。

それだけで、彼女は帰っていった。

引き止める理由も、言葉もない。

デスクに残された俺は、画面に映る自分の顔をぼんやりと見つめる。

みひろが結婚したと報告した日のことを、俺は妙にはっきり覚えている。

会議室の端で、少し照れたように笑いながら言っていた。

「実は、先月入籍しまして」

そのときも、今日と同じように拍手が起きた。

「おめでとうございます」

「そうだったんですね」

祝福の声。

あのとき、俺は何も思わなかった。

本当に、何も。

胸が痛むことも、ざわつくこともなく、

ただ「そうなんだ」と受け止めただけだった。

なぜだろう、と今になって思う。

たぶん――理由は単純だ。

あの頃、俺には付き合っている彼女がいた。

同じ会社ではない。

週末に会って、他愛のない話をして、未来の話も少しだけする。

特別劇的な恋じゃなかったけれど、

少なくとも、独りではなかった。

だからみひろの結婚は、

俺の人生とは交差しない「誰かの出来事」でしかなかった。

彼女とは、もう2年も前に別れた。

理由は曖昧だった。

忙しさ。

すれ違い。

「このまま続けても、たぶん結婚はしないよね」という、

どちらからともなく出た言葉。

大きな喧嘩もなかった。

だからこそ、終わった実感も薄かった。

――なのに。

みひろの妊娠報告を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが確かに引っかかった。

結婚のときにはなかった感覚。

羨ましさとも、悲しさとも違う。

もっと、輪郭のぼやけた違和感。

会社の廊下を歩きながら、その正体を考える。

結婚は、選択だ。

する人もいれば、しない人もいる。

でも妊娠は違う。

それはもう、「選ばれた未来」ではなく、

始まってしまった時間だった。

戻れない。。

みひろの人生が、確実に次の段階へ進んでしまった証。

夢の中の彼女は、いつも同じ場所にいる。

あのホテルの一室。

止まった夜。

続きを待ち続ける存在。

でも現実のみひろは、違う。

腹の奥で、新しい命を抱えながら、

もう俺の知らない未来へ向かっている。

「……何なんだよ、これ」

誰に向けるでもなく、吐き出す。

好きだったのかと聞かれれば、たぶん違う。

付き合いたかったかと聞かれても、はっきりしない。

それでも、確かに思ってしまう。

もし、あの頃――

俺に彼女がいなかったら。

みひろの結婚を、どう受け止めていただろうか。

もし、今の俺が、独りじゃなかったら。

妊娠の報告に、ここまで心を乱されただろうか。

答えは、分からない。

分かっているのは、

結婚の報告は「区切り」。

妊娠の報告は「不可逆」という俺の思想だ。

夜、部屋に戻る。

照明を落とすと、部屋は静まり返った。

以前なら、誰かの気配があった場所。

今は、何もない。

ベットに横になると、自然と目を閉じていた。

夢に逃げたいわけじゃない。

ただ、現実に居場所がないだけだ。

眠りに落ちる直前、ふと思う。

俺が確かめたいのは、

彼女の気持ちなんかじゃないのかもしれない。

――あの夢の中で、止まっているのは誰なのか。

彼女か。

それとも、俺自身か。

答えは、まだ、夢の向こう側にあった。

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