第3話
その夜、布団に入っても、すぐには眠れなかった。
部屋の灯りを消しても、今日という一日に満足できていない。
拍手。笑顔。祝福の言葉。
誰も間違っていない。
誰も悪くない。
それなのに、胸の奥にだけ、静かなひび割れが残っていた。
スマホを見ると、日付が変わっていた。
目を閉じる。
深呼吸をひとつ。
――大丈夫だ。
眠れば、またあそこへ行ける。
れまで何度もそうしてきた。
夢に入る瞬間は、いつも決まっている。
身体が重くなり、音が遠のき、意識だけが沈んでいく。
その途中で、「これは夢だ」と気づけたとき、世界の輪郭がはっきりする。
それが、俺の明晰夢だった。
だが今夜は、なかなか境界を越えられなかった。
意識が落ちそうになるたび、現実の映像が引き戻す。
みひろの微笑み。産休という言葉。
もう戻らない日常。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
感情が荒れると、夢は安定しない。
興奮も、焦りも、後悔も、すべて敵だ。
落ち着け。ただ眠れ。
そう言い聞かせ続け、いつの間にか意識が途切れた。
――気づくと、俺は廊下に立っていた。
カーペットの感触。
柔らかい照明。
見覚えがある。
ホテルの廊下だった。
「……来た」
心臓が跳ねる。
同時に、強く意識する。
これは夢だ。
夢だと分かった瞬間、世界の色が濃くなった。
輪郭がはっきりし、空気の重さまで感じられる。
成功だ。
だが、ここからが問題だった。
廊下の奥へ進む。あの部屋。
何度も、途中で終わった場所。
ドアノブに手をかけた瞬間、胸がざわついた。
興奮するな。期待するな。
ただ、確認するだけでいい。
ドアを開ける。
室内は静かだった。
ベッド。カーテン。
淡い間接照明。
――そして、みひろがいた。
ベッドの端に腰かけ、こちらを見ている。
夢の中の彼女は、いつも同じ表情をしていた。
少し潤んだ目。
言葉を持たない沈黙。
「待っている」という確信だけを含んだ視線。
「……」
俺は一歩、距離を詰める。
彼女は逃げない。
拒まない。
夢の中では、時間が止まっているようだった。
ふと、違和感が胸をよぎった。
「……なあ」
声をかける。
彼女は答えない。
ただ、こちらを見るだけだ。
これまでは、それでよかった。
だが今夜は、どうしても確かめたかった。
「ここが夢だって、分かってるか?」
問いかけた瞬間、空気がわずかに揺れた。
照明が、ちらつく。
彼女は、ほんの一瞬だけ、瞬きをした。
それだけだった。
返事はない。
夢の中の彼女は、俺の想像の通りに動く。
欲しがり、近づき、求める。
でも――問いには答えない。
まるで、そこから先は再現できないみたいに。
「……そうか」
胸が、静かに沈んだ。
彼女が俺と一夜を過ごしたがっているのか。
それとも、俺がそう思いたいだけなのか。
夢は、その答えを用意してくれない。
近づこうとした、そのとき。
景色が、かすかに歪んだ。
まずい。
感情が揺れている。
興奮でも欲望でもない、
もっと厄介な感情――現実への執着。
天井が遠ざかる。
彼女の輪郭が薄れていく。
「……待て」
手を伸ばすが、指先は空を掴んだ。
世界が裏返る。
次の瞬間、俺は自分のベッドの上にいた。
暗い天井。
耳鳴り。
心臓の音だけが、現実に戻りきれずに響いている。
「……やっぱり、ダメか」
夢は、欲望には応えてくれる。
でも、現実を持ち込んだ瞬間、壊れる。
スマホを見ると、まだ夜中だった。
みひろは、もうすぐ産休に入る。
現実では、距離は広がる一方だ。
なのに夢の中では、あの夜の続きだけが、何度も再生される。
進まない。終わらない。
まるで――
俺が答えを知るまで、
夢そのものが先へ進ませないみたいだった。
「……方法があるはずだろ」
独り言が、暗い部屋に落ちる。
彼女の意思を確かめる方法。
夢だと知ったまま、同じ場所に立つ方法。
それが見つからない限り、
あの夜は、永遠に途中で終わる。
俺はもう一度、目を閉じた。
眠るためじゃない。
夢に戻るために。
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