第2話

朝礼の時間、フロアにはいつもより少しだけ人が多かった。

全体朝礼が終わり、チームごとの朝礼が始まった。

全員が席につくと、課長が軽く咳払いをする。

「えー、今日はひとつ共有があります」

その言い方だけで、なんとなく業務連絡ではないとわかった。

「みひろさんが、妊娠されたとのことで」

皆、みひろに目をやった。

いつもより少しだけ緊張した顔で、それでも穏やかに微笑んでいた。

「私事で恐縮ですが……このたび、妊娠が分かりました」

一瞬、空気が止まり、次の瞬間、ざわっと音が広がった。

「おめでとうございます」

「よかったですね」

あちこちから声が上がる。

拍手まで起きた。

彼女は少し照れたように頭を下げる。

「体調の関係で、予定より少し早めに産休に入ることになりました。

急で申し訳ありませんが、引き継ぎのほうは順次進めていきますので……」

言葉は、きちんとしていた。

社会人として、完璧な報告だった。

祝福されるべき現実。

正しい未来。

なのに。

俺の頭の中では、まったく別の光景が重なっていた。

潤んだ目。

触れ合った唇。

同じベッドの上で、俺を見つめていた彼女。

夢の中の彼女は、まだ、あの夜の途中にいた。

現実の彼女は、もうそこにいない。

「……」

 拍手がスローモーションに動く。

遅れて、小さく二度だけ叩く。

誰も、俺を見ていなかった。

朝礼が終わると、自然と彼女の席の周りに人が集まった。

「体調大丈夫?」

「無理しないでくださいね」

笑顔と心配と祝福。

その輪の外から、俺はただ眺めていた。

声をかける理由は、何一つない。

仲のいい同僚。

それ以上でも、それ以下でもない。

彼女の横顔を見て、胸の奥が妙に冷えた。

夢の中では、あんなにも近かったのに。

現実では、触れる理由すら持てない。

午後、仕事をしながらも、集中はできなかった。

妊娠。産休。

その言葉が、頭の中で何度も反響する。

夢は止まったままだった。

何度繰り返しても、あの夜の途中で終わる。

でも現実は違う。

俺が眠っている間にも、確実に進んでいく。

彼女の時間は、もう俺の知らない場所へ向かっている。

退社時間。

彼女はデスクを片付けながら、周囲に軽く頭を下げていた。

「少し早く帰りますね」

「お疲れさまでした」

そのやり取りの中に、俺の声も混じる。

「……お疲れさまでした」

彼女は一瞬こちらを見て、にこりと微笑んだ。

それだけだった。

夢の中で見た熱も、迷いも、そこにはなかった。

帰り道、夕方の電車に揺られながら、俺は窓に映る自分を見る。

ひどく取り残された顔をしていた。

夢だから、許されると思っていた。

夢だから、踏み込めると思っていた。

でも本当は、夢の中で止まっていたのは、

彼女じゃなく、俺だったのかもしれない。

今夜、また眠るだろう。

また、あのホテルの部屋へ戻ろうとするだろう。

けれどもう、はっきりしていた。

あの夢は「可能性」じゃない。

現実から、少しずつ遠ざかるための、ただの逃げ道だ。

それでも――

それでも俺は、確かめずにはいられなかった。

彼女は、本当に。

夢の中でだけでも、

俺と一夜を過ごしたいと思っていたのかを。

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