境界線のホテル――なんでも許される夢の中で、君は僕を愛してくれる
厚焼
第1話
彼女の目は、少し潤んでいた。
焦点が甘く、熱を帯びたまま、まっすぐこちらを見ている。
言葉はなかった。
ただ、その視線だけで十分だった。
求めている。
そう理解できてしまうほど、わかりやすい目だった。
俺が顔を近づけると、彼女は逃げなかった。
まぶたを伏せ、ほんのわずかに顎を上げる。
唇が触れる。
一瞬では終わらなかった。
確かめ合うように、ゆっくりと重ねる。
夢のはずなのに、温度も柔らかさも、現実と変わらない。
彼女の指が、俺の服の裾を掴んだ。
息が混ざる。
胸の奥が一気に熱くなり、鼓動が早まる。
――落ち着け。でも時間は短い。
頭の中で、強く言い聞かせた。
興奮しすぎると、夢は壊れる。
明晰夢は、感情が一定のラインを越えると、必ず目を覚ましてしまう。
これまで何度も、それで終わってきた。
自分にそう言い聞かせながら、彼女の肩に手をかける。
キスは続いているのに、意識だけが妙に冷静だった。
服に指をかける。
布越しに伝わる体温。
視線が自然と、彼女の胸元へ落ちた。
そこには、「現実では越えてはいけない線」があることを、
頭ではわかっている。
でも今は、夢だ。
夢の中でしか、ここまで来られない。
深呼吸を一つ。
落ち着け。
まだ大丈夫だ。
そう思って、衣服の端を指でつまんだ――
次の瞬間。
視界が、強く揺れた。
心臓が跳ねる。
まずい。
そう思ったときにはもう遅かった。
ホテルの輪郭が滲み、色が抜けていく。
彼女の顔が、遠ざかる。
「……あ」
声にならない息だけが漏れた。
世界が裏返る。
目を開けると、自分の部屋だった。
天井。
朝焼け前の薄暗さ。
心臓だけが、夢の続きを引きずったまま、うるさく鳴っている。
「……またかぁ」
ベッドの上で仰向けになり、天井を見つめる。
キスまではできる。
触れ合うところまでは、許される。
でも、そこから先へ進もうとした瞬間、必ず夢は終わる。
彼女が拒んだわけじゃない。
俺の中の彼女は、最後まで、求めるままだった。
問題は、いつも――
俺の興奮と、夢の限界が重なる、その瞬間だ。
俺はスマホで時間を確認した。
『あと三十分は寝れる』
もう一度目を閉じる。
もう一度眠れば、続きを見られる。
でも、中途半端に、十分ほどで目が覚める。
諦めて、身体を起こした。
カーテンを開けると、朝の光が容赦なく部屋に流れ込む。
夢の残滓を、一瞬で薄めていく。
スーツに袖を通し、ネクタイを結ぶ。
鏡に映るのは、どこにでもいる会社員の自分だった。
さっきまで、誰かと唇を重ねていた男には見えない。
玄関を出ると、冷たい朝の空気が肺に入る。
駅へ向かう人の流れに、身体が自然と紛れ込んでいく。
これから会う。
夢の中で、あれほど近かった彼女に。
何事もなかった顔で、
「おはようございます」と言うために。
俺は今日も、現実へ向かって歩き出した。
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