裏切りの赤
列車がミュンヘンの駅に滑り込んだとき、私は自分の肺に流れ込んできた空気が、石炭の
一九一八年の冬。かつて私が「真なるドイツの魂」を求めて辿り着いた芸術の都は、見る影もなく変貌していた。街角には、敗戦に打ちひしがれ、階級章を剥ぎ取られた兵士たちが、幽霊のように彷徨っている。かつての栄光を象徴した軍服は汚れ、誇りの象徴だった鉄十字勲章をパン一切れのために売り払う男たちが列をなしていた。だが、何よりも私の網膜を焼き、胃の奥から吐き気を催させたのは、街の至る所で翻る、血のように毒々しい「赤旗」の色彩だった。
「革命だ! 自由を! パンを! 帝国の圧政を終わらせろ!」
街頭では、昨日まで戦場から逃げ回っていたような卑屈な男たちが、赤旗を振り回しながら、ドイツという国家の死体を足蹴にしていた。社会主義、共産主義、評議会共和国……。彼らが叫ぶ理念は、私にとって、美しく構築された幾何学的な秩序を、泥まみれの軍靴で踏みにじる暴挙に他ならなかった。
(……汚されている。私のドイツが、私の聖域が、この『赤』という不純な絵具で塗りつぶされていく)
私は、駅のベンチで一人、磨き上げられた自分の軍靴を見つめた。パセウォルクの病院で誓った「政治家になる」という野心。だが、眼前に広がる現実は、その第一歩を踏み出すための下地さえも失われていた。今のドイツは、キャンバスそのものが引き裂かれ、燃やされている状態だったのだ。
生き残らねばならない。この混沌という名の「失敗作」を修正するためには、まず私がこの
一九一九年二月。ミュンヘンは、ユダヤ系の社会主義者クルト・アイスナーによる革命政府に支配されていた。驚くべきことに、後の私が「世界で最も憎むべき不浄」と呼ぶことになるこの体制下で、私は、自分の左腕に「赤い腕章」を巻いた。私は連隊の兵士評議会の代議員に選出され、革命政府の警備任務に就いた。かつての戦友たちが、この変節を驚き、あるいは軽蔑の目で見ていたかもしれない。だが、私にとって、この赤い腕章は忠誠の証などではなかった。それは、獲物を狙う猛獣が背景に溶け込むための「
私は、赤旗が翻る集会の中、黙々と任務をこなした。壇上で、労働者たちが叫ぶ不器用な正義、マルクス主義の歪んだ論理、そして「ユダヤ的な扇動者」たちが大衆の憎悪を操る手口。私はそれらを、憎しみの奥底にある冷徹な「観察者の目」で凝視していた。
(……見よ。彼らのやり方は粗雑だが、効果的だ。大衆は、論理的な設計図など求めていない。彼らが求めているのは、自分たちの空腹と怒りを肯定してくれる、強烈な
私は、自分が最も忌み嫌う「赤」という色の中に、皮肉にも、後の自分が大衆を染め上げるための「技法」を見出していた。大衆を熱狂させるのは、高潔な理想ではない。単純化された敵、繰り返されるスローガン、そして、すべてを飲み込むような強烈な集団心理。私は、赤い腕章を巻いたまま、心の中でその技法を精密なデッサンとして描き写していた。
ある夜、アイスナーが暗殺され、ミュンヘンはさらなる流血の渦に飲み込まれた。「ミュンヘン・レーテ(評議会)共和国」の成立。市街地にはバリケードが築かれ、同志が同志を撃ち、略奪が日常と化した。私は、その阿鼻叫喚の市街地を、赤い腕章を隠すことなく歩き回った。私の瞳に映っていたのは、もはや建築家としての美しい
一九一九年五月。中央政府の軍(義勇軍)がミュンヘンに侵攻し、赤の独裁は数日間で壊滅した。街路樹には、昨日まで赤旗を振っていた男たちが吊るされ、街は再び「白」と「黒」の色に戻ろうとしていた。私は、軍が戻ってきたその瞬間に、赤い腕章を引き剥がし、ドブ川に捨てた。そして私は、今度は「赤狩り」の側に回った。軍の調査員として、かつての自分の「同僚」であった革命参加者たちを告発し、尋問し、排除する。裏切り? 卑怯?そんな道徳的な色彩は、私というパレットには一滴も残っていなかった。私にとって、赤い腕章を巻いていた時間は、自分の設計図に必要な「敵の心理」を盗むための潜入期間に過ぎなかった。汚れを知ることで、初めて純粋さを守る方法が分かる。毒を知ることで、初めて他人を毒殺する術を手に入れるのだ。
尋問室の薄暗い電灯の下、私は、かつて共にパンを分けたかもしれない兵士を、冷酷な眼差しで追い詰めた。 「お前は、誰の命令で赤旗を振った。誰がその絵具を配った」
私の声は、もはや伝令兵の報告する声ではなかった。それは、相手の罪を暴き、その魂に「恥辱」という色を刻みつける、冷徹な検閲官の声だった。私は、自分が言葉を使って人間を恐怖させ、操り、配置し直すことができるという事実を、この「裏切りの日々」の中で確信に変えていった。
私の内側のキャンバスには、今、新しい下書きが完成しつつあった。それは、ウィーンで見上げた宮殿でも、フランドルの戦場でもない。このドイツという、引き裂かれ、汚された大地。そのすべてを一度、真っ黒なインクで塗り潰し、その上から、私が発明した「最も純粋で、最も凶暴な色」で塗り替える。赤い腕章を捨てた私の腕は、もはや何の色にも染まっていないように見えた。だが、その指先は、今や言葉という名の「不可視の筆」を握りしめ、獲物を、あるいはキャンバスを、じっと見定めていたのだ。
一九一九年、夏。ミュンヘンの熱風は、死体の臭いと、新しい時代への不気味な期待を孕んでいた。私は、軍の政治啓発将校(スパイ)としての辞令を受け、一つの小さなビアホールへと向かうことになる。 そこで私は、人生における「真実の処女作」を描くことになるのだ。絵具は、私の血ではない。聴衆の、そして国民の、沸騰する魂だ。
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アドルフ・ヒトラー 〜復讐の歴史学〜 @rekisimanabi
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