パセウォルクの暗闇
それは、色彩の断絶だった。
一九一八年、十月十四日未明。ベルギーのウェルヴィク近郊。突如として、戦場に黄色く濁った、重苦しい霧が這い寄ってきた。マスタードガスだ。私は反射的にガスマスクを装着しようとしたが、その一瞬の遅れが、私の運命というパレットを真っ黒に塗りつぶした。肺を灼き、喉を突き刺すような激痛。そして、何よりも耐え難かったのは、私の眼球を数千本の針で突き刺すような、烈火のごとき熱さだった。
「……目が見えない! 私の、私の目が見えない!」
私は泥の中に転がり、もはや存在しない光を求めて虚空を掻いた。視覚――それは、私が世界を認識し、制御するための唯一の窓だった。建築のパースペクティブを捉え、敵陣の配置を俯瞰し、美しい街並みをスケッチしてきたその機能が、今、腐食性のガスによって物理的に破壊されたのだ。
私は、後方のパセウォルクにある陸軍病院へと運ばれた。頭部に幾重にも巻かれた包帯。その内側で、私は絶望という名の漆黒の闇に閉じ込められていた。医師たちは「一時的な盲目だ」と言った。だが、私にとってそれは死に等しい宣告だった。画家として生き、世界の「配置」を視覚的に統制することに執着してきた私から、光を奪うこと。それは、神が私のキャンバスを力ずくで奪い取り、筆を折ったことを意味していた。病院のベッドの上、私は何日も動かず、ただ外界の音に耳を澄ませていた。視覚を失ったことで、私の他の感覚は異常なまでに研ぎ澄まされていった。隣のベッドの兵士が漏らす、死を待つ者の湿った吐息。看護婦たちの、絶望を隠しきれない靴音。そして、遠くから聞こえてくる、ドイツという国家が崩壊していく足音……。
(……暗い。あまりにも、世界は暗すぎる)
私は包帯の奥で、かつて自分が描いたスケッチを思い出そうとした。ウィーンの宮殿、ミュンヘンの広場、戦場の廃墟。だが、どんなに目を凝らしても、脳裏に映るのは真っ赤な炎と、それを飲み込む果てしない闇だけだった。しかし、その完全な暗闇の中で、私は奇妙な「変異」を経験し始めていた。外界からの視覚情報が遮断されたことで、私の内側に蓄積されていた膨大な「憎悪」と「理想」が、行き場を失って私の喉元へと逆流してきたのだ。私は、声を出さずに唇を動かした。「……まだだ。まだ、終わらせない。私の設計図は、まだ完成していない」
自分の内側から響く声。それは、かつて他人に怯えていた青年のものではなく、戦場で死線を越え、鋼鉄の規律を血肉化した男の、冷徹で硬質な振動だった。私は、闇の中に言葉を並べ始めた。目で見えないのなら、言葉で世界を再構築すればいい。目で見えないのなら、私の声を光に変え、他人の脳にその光景を直接焼き付ければいい。
私は、病室の静寂をキャンバスにし、目に見えない筆で、新しいドイツの構図を描き始めた。誰がこの国を裏切ったのか。誰がこの完璧な構図に泥を塗ったのか。誰を排除し、誰を熱狂させれば、再び「純粋な色彩」を取り戻せるのか。私は、自分の思考が、かつてないほどに鋭利な「言語の刃」へと研がれていくのを感じた。視覚を失った恐怖は、いつしか、新しい武器を手に入れるための「脱皮の痛み」へと変わっていた。私は、暗闇の中で演説をしていた。声に出さずとも、私の全身の筋肉が、言葉の重みに合わせて収縮し、拡張する。私の意志が、空気の振動となって、この病院の壁を突き破り、ドイツ全土を震わせる幻覚。
ある日、私は包帯の隙間から、微かな光の揺らぎを感じた。視力が戻り始めていたのだ。だが、その時。病室に激震が走った。一九一八年十一月十日。牧師が病室に現れ、嗚咽混じりに告げた。「……皇帝は退位し、我が祖国ドイツは、無条件降伏を受け入れました」
その瞬間、私の視界は再び真っ暗になった。今度はガスのせいではない。あまりの衝撃と、腹の底から突き上げてくる煮え繰り返るような憤怒が、私の神経を再び焼き切ったのだ。私は泣いた。母が死んだ時以来、一度も流さなかった涙が、頬を伝って包帯を濡らした。それは悲しみの涙ではない。自分たちの血と鉄で築き上げてきた誇りが、背後から「裏切り者たち」の手によって刺され、ドブ川に捨てられたことへの、猛烈な憎悪の涙だった。暗闇の中で、私は天啓を聞いた。(……画家アドルフは、今、ここで死んだ。……これからは、政治家として生きるのだ)
私は、自分の目から包帯を力ずくで引き剥がした。再び見え始めた世界は、かつてのウィーンよりも、戦場の泥濘よりも、遥かに醜く、無秩序で、灰色の絶望に満ちていた。だが、私はもう迷わなかった。私は、この灰色の廃墟を、私の「声」という筆で塗り替える。目に見える美しさなど、もういらない。必要なのは、人々の魂を一つの色に染め上げる、絶対的な言語の暴力だ。パセウォルクの暗闇。それは、一人の無名な伍長が、自身の網膜に「復讐」という名の永遠の設計図を刻み込み、怪物へと変貌を遂げた、漆黒の聖誕祭であった。
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