支配のプロトタイプ

 一九一六年の夏。戦場はもはや、かつての英雄的な騎士道精神など微塵も残らぬ、泥と鉄の挽肉機へと変貌していた。ソンムの戦い。その地獄のような砲火の合間を縫って、私はいつものように伝令の任務を果たしていた。人命がただの数値として処理され、友軍の死体が塹壕の土台として積み上げられる光景。私はそれらを、もはや感情の波を立てることなく、「必要な背景」として処理する術を身につけていた。


 そんなある日のことだ。敵側のイギリス軍陣地から、一匹の小さな白いテリア犬が、迷い込んだようにこちら側の泥濘を走ってきた。周囲の兵士たちは、「今夜の肉にちょうどいい」と卑俗な冗談を飛ばしながら銃を向けようとしたが、私はそれを無言で制した。その犬は、砲弾のクレーターに足を取られながらも、まっすぐに私のもとへと辿り着き、私の軍靴の泥を舐めたのだ。


「……フックス(キツネ)。今日からお前の名は、フックスだ」


 私は、自分が人間に対しては決して見せることのない、奇妙なほど穏やかな声でそう呟いた。私はその犬を連れ帰り、自分の乏しい食料を分け与え、暇を見つけては徹底的な訓練を施した。私の命令一つで、フックスは前脚を上げ、死んだふりをし、私の望むままに動いた。


 戦友たちは、私が犬を可愛がる姿を見て「アドルフにも、ようやく人間らしい心が戻ったのか」と安堵の表情を浮かべた。だが、彼らは致命的な勘違いをしていた。私にとって、フックスは単なる愛玩動物ではなかった。それは、私が頭の中で描き続けていた「理想の被支配者」のプロトタイプだったのだ。


(……そうだ。これこそが、あるべき秩序の姿だ)


 私は、フックスの頭を撫でながら、その黒い瞳を見つめる。犬は、私を裏切らない。犬は、私の「設計図」に疑問を持たない。私の指先が右を向けば、彼は疑うことなく右へ走る。私が「止まれ」と言えば、たとえ背後で砲弾が炸裂しようとも、彼は彫像のように動きを止める。そこには、人間同士が持つ不確かな「信頼」や、醜い「自己主張」などは存在しない。あるのは、絶対的な「意志」と、それへの純粋な「服従」という、透き通るように美しい主従のパースペクティブだけだ。


 私はフックスを通じて、確信を深めていった。大衆もまた、この犬と同じではないか。彼らは、自由という名の無秩序を求めているのではない。自分たちを正しく導き、明確な命令を与え、一つの「色」に染めてくれる、絶対的な主権者を渇望しているのだ。私がフックスに注いでいる情熱は、愛という名の「調教」であり、混沌とした生命を、私の美学に沿った「部品」へと造り変える作業に他ならなかった。


 私は、フックスを連れて司令部の廊下を歩くとき、かつてウィーンで感じていたあの孤独が、全く別の質の「孤高」へと変化しているのを感じた。人間たちは、相変わらずくだらない会話に興じている。「この戦争はいつ終わるのか」「故郷のビールが恋しい」……。彼らは、目の前の巨大な歴史の変革を理解しようともせず、ただ流されるだけの「素材」だ。そんな彼らに比べれば、私の命令を完璧に遂行する一匹の犬の方が、遥かに価値のある存在に思えた。


 私は、スケッチブックを広げ、フックスの姿を精密に描き込んだ。背景には、不気味なほど整然とした列をなす兵士たちの影。その中心で、私とフックスだけが、世界の軸として直立している。私の絵からは、次第に「風景」が消え、「記号」と「構図」が支配するようになっていた。


 だが、この平穏な「支配の実験」は、残酷な形で幕を閉じる。一九一七年、連隊が移動する混乱の中、何者かがフックスを盗んでいったのだ。おそらくは、高く売れる品種であることを知った誰かが、私の目を盗んで連れ去ったのだろう。


 私は、狂ったようにフックスを探した。戦友たちは驚いた。「あの冷徹なアドルフが、たかが犬一匹のために……」と。  だが、私が失ったのは、単なる犬ではなかった。私は、自分の手でようやく完成させつつあった「完璧な支配の模型」を、卑俗な人間の強欲によって奪われたのだ。


 その夜、私は独り、冷たい月明かりの下で荒野を見つめていた。フックスがいなくなった喪失感は、やがて煮え繰りかえるような激しい怒りへと変わった。(……人間。やはり、人間は『汚れ』だ。私の設計を乱し、私の宝を奪い、世界を混沌へと引き戻す。彼らに慈悲を与える必要などない)


 私は、フックスのいなくなった虚空に向かって、静かに、しかし鋼鉄のような重みを持って誓った。次は、犬ではない。もっと巨大なもの、すなわちこの「ドイツ」という国そのものを、私のフックスにしてみせよう。  私の指先一つで、何百万の軍勢が整列し、何千万の民衆が同じ言葉を叫ぶ。裏切りを許さず、私利私欲を排し、ただ私の「意志」だけが、この世界の隅々までを行き渡る、巨大な主従のパレット。


 一九一七年の終わり、私は再び孤独になった。だが、その孤独は、もはやウィーンの路地裏で味わった惨めなものではなかった。それは、完成間近の設計図を胸に抱いた、創造主の孤独だった。私の周囲を飛び交う砲弾の音も、兵士たちの呻き声も、すべてが私という巨大なシンフォニーの序曲に聞こえ始めていた。フックスは消えたが、彼から学んだ「支配の手応え」は、私の右手に、消えない感触として刻まれていた。私は、誰もいない司令部の執務室で、真っ白な報告書に一筆、力強く線を引いた。それは、後に世界を二分することになる、冷徹な境界線の第一歩であった。

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