孤独な伝令兵の視点
一九一五年。戦線は膠着し、大地には巨大な傷跡のような塹壕が際限なく掘り進められていた。私はこの年、連隊司令部付の伝令兵という任務を拝命した。それは、前線の塹壕から後方の司令部へ、あるいはその逆へと、砲火の合間を縫って命令書を届ける孤独な走者である。
多くの兵士は、狭い塹壕の中で仲間と肩を寄せ合い、恐怖を分かち合うことで辛うじて正気を保っていた。だが、伝令兵は違う。一度壕を飛び出せば、そこには遮るもののない死の荒野が広がっており、頼れるのは己の脚と、運命という名の設計図だけだった。
「……またアドルフか。あいつは本当に、死神にでも愛されているんじゃないか」
司令部で命令書を受け取るたび、兵士たちは私を奇妙な、あるいは忌まわしいものを見るような目で眺めた。無理もない。連日の砲撃で通信網は寸断され、昨日までの伝令兵たちは皆、泥の中の肉片と化していた。だというのに、私は一度として傷を負うことなく、硝煙の中からひょっこりと姿を現す。
私は彼らの畏怖を、静かな悦びとともに受け入れていた。伝令という任務は、私に「戦場を俯瞰する」という特等席を与えてくれたのだ。前線の兵士は、自分の目の前の数メートルしか見えない。彼らにとっての戦争は、泥と、恐怖と、隣で死にゆく友人の悲鳴でしかない。しかし、戦火の荒野を一人で駆け抜ける私には、この巨大な戦場の「構図」が見えていた。
右翼の砲撃が土煙を上げ、中央の歩兵が波のように寄せ、左翼の機関銃がそれを薙ぎ払う。それは、巨大な意志によって描かれる、動的な絵画であった。私はその光景を眺めながら走る。弾丸が耳元を掠め、土砂が頬を叩く。だが、私の心は驚くほど凪いでいた。一人でいることで、私は「集団の恐怖」という不純な色彩から解放されていたのだ。
(……そうだ。この世界を動かしているのは、個人の命ではない。巨大な『意志』の配置なのだ)
夜、司令部の片隅で、私は再び筆を握る。かつてのように美しい街並みを描くことはもうない。私が描くのは、鉄条網が張り巡らされ、砲弾のクレーターが幾何学模様のように広がる、無機質な戦場の俯瞰図だった。 そこには、兵士の顔など描かない。彼らはただ、陣地を保持するための「記号」に過ぎなかった。
そんな私にとって、連隊の仲間たちとの時間は、耐え難い苦痛へと変わりつつあった。たまの休息、塹壕の狭い空間で、彼らは故郷の妻の話や、下卑た女の話、あるいは食い物の恨みつらみを語り合う。それは、私が図書館で築き上げ、戦場で確信に変えつつある「高潔な理想」を汚す、低俗なノイズだった。
「おい、アドルフ。お前もこっちへ来いよ。そんな難しい本ばかり読んでないで、このソーセージの不味さを一緒に笑おうぜ」
戦友の一人が私を誘う。だが、私は本から目を離さず、氷のような声で答えた。
「私はお前たちとは違う。……この戦争が何を意味しているのか、お前たちは一ミリも理解していない。これはただの殺し合いではない。ドイツという魂を浄化し、新しい秩序を打ち立てるための儀式だ。それを女や食い物の話で汚すな」
座が凍りついた。彼らは私を「奇人」と呼び、次第に距離を置くようになった。私はそれで良かった。むしろ、彼らという「素材」と自分という「設計者」の間には、明確な境界線が必要だった。私は時折、誰もいない深夜の塹壕で、独り言のように演説の練習を始めた。相手は兵士たちではない。闇夜に広がる死の荒野だ。私の言葉が、冷たい風に乗って戦場へ消えていく。だが、その声には、かつてウィーンの路上で震えていた青年の弱々しさは微塵もなかった。
「……見よ、この荒野を。古い世界は死んだ。次は、私がこの更地に、新しい神殿を建てるのだ」
一九一五年の冬、私は伝令の途中で、廃墟となった修道院の跡を見つけた。壁は崩れ落ち、十字架は泥にまみれていた。かつての祈りの場所が、今はただの瓦礫の山だ。私はその光景を、美しいと感じた。神さえも、この「戦争」という筆致の前では無力なのだ。ならば、この空位となった神座に座るのは、誰か。私は胸のポケットにある命令書――すなわち「世界の配置を変える意志」を強く握りしめた。孤独な伝令兵は、硝煙の中を走り続ける。その脚取りは、もはや逃亡者のものではない。自分の足音によって、世界という大地を自分色に染め上げていく、冷徹な征服者の歩みであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます