イープルの血塗られた処女作

 一九一四年、十月末。フランドルの大地は、粘り気のある冷たい泥と、低く垂れ込めた灰色の雲によって、色彩のすべてを奪われていた。


 我々リスト連隊が送り込まれたのは、ベルギーのイープル近郊。後に「イープルの初陣(虐殺)」と呼ばれることになる、凄惨な戦場だった。列車を降りた私を待ち受けていたのは、ミュンヘンの広場で夢想していた華々しい英雄劇などではなかった。そこにあったのは、耳を聾する砲声と、大地を抉り取る巨大な暴力の嵐……そして、これまでの人生で嗅いだことのない、生臭く、鉄の錆びたような「死」そのものの匂いだった。


「伏せろ! アドルフ、伏せろ!」


 誰かが叫び、私の肩を泥の中に押し付けた。その直後、私のすぐ数十メートル先で大地が爆発し、黒い土塊と、そして信じ難いことに「人間の破片」が雨のように降ってきた。周囲の兵士たちは、昨日まで冗談を言い合っていた農夫や学生の若者たちだった。彼らは今、獣のような悲鳴を上げ、母の名を呼び、泥を噛みながら震えている。だが、その時。私の内側で鳴り響いていたのは、彼らとは全く別の旋律だった。


(……これは、完成された光景だ)


 私は、泥にまみれた顔を上げ、硝煙の向こう側に広がる光景を凝視した。砲弾が地面を抉り、樹木を薙ぎ倒し、秩序あった村々を一瞬で無機質な瓦礫へと変えていく。かつて私が、定規と鉛筆で必死に再現しようとした「完璧な空間」が、今、人知を超えた巨大なエネルギーによって再構築されている。そこには、醜い人間たちの生活感など欠片もなかった。ただ、破壊という名の純粋な意志が、大地というキャンバスに力強い「筆致」を刻んでいるのだ。


 恐怖がなかったわけではない。心臓は喉元まで飛び出さんばかりに跳ね、指先は冷たく強張っていた。しかし、それ以上に私を支配したのは、ある種の「審美的な恍惚」だった。私は自分の銃を握りしめ、前方の敵陣へと突き進んだ。


 イギリス軍の機関銃が、死のほうきのように平原を掃いていく。隣を走っていた若い志願兵が、まるで見えない力に弾かれたように、崩れ落ちた。彼の喉からは真っ赤な鮮血が噴き出し、冬の冷たく濁った泥の上に、信じ難いほど鮮烈な「赤」をぶちまけた。その色彩の対比に、私は息を呑んだ。灰色の空、黒い土、そして鮮血の赤。画商に売るために描いていた、あの退屈な絵葉書には、これほどの「真実の色彩」は存在しなかった。私は、倒れた戦友を助けようとはしなかった。ただ、その流れる血の美しさと、命が消えゆく瞬間に肉体が示す冷徹な物理現象を、脳裏に刻み込むことに夢中だったのだ。


「前へ! ドイツのために、前へ進め!」


 私は叫んでいた。それは勇気というよりも、この巨大な「作品」の一部として、自らの役割を完結させたいという強迫観念に近かった。数日間の激戦。リスト連隊の損害は壊滅的だった。三千人以上いた志願兵のうち、無傷で生き残ったのはわずか数百人。かつての仲間たちは、原形を留めぬ肉の塊となって、フランドルの泥の中に埋もれていった。だが、私は生き残った。私の外套には数カ所の弾痕が刻まれ、帽子は吹き飛ばされていたが、私の肉体には傷一つついていなかった。


 戦火が一時的に止んだ夜、私は静まり返った塹壕の隅で、小さなスケッチブックを取り出した。私は震える指で、昼間に見た「破壊された農家」を描き始めた。屋根は崩れ、壁には無数の弾痕が刻まれ、かつての家庭の安らぎは塵となっている。私はその崩壊のディテールを、狂気的な正確さでなぞっていく。そこには、一人の人間の姿も描かなかった。


「……アドルフ。お前、よくそんなもん描けるな」


 生き残った戦友の一人が、泥に汚れた顔で私を覗き込んだ。彼の瞳には、死への恐怖と、そして私に対する隠しきれない「気味悪さ」が浮かんでいた。「みんな、死んだんだぞ。マイヤーも、シュミットも……。なのにお前は、そんな壊れた家の絵なんて描いて……。お前には、感情というものがないのか?」


 私は彼を一瞥したが、何も答えなかった。彼らが嘆いているのは、卑小な「個人の死」だ。だが、私が見ているのは、もっと高潔な「秩序の変容」なのだ。古いものが壊れ、新しい形が生まれる。そのためには、一定の犠牲――すなわち、絵具としての血液が流れるのは、避けられない必然ではないか。


 私は、描き上げたスケッチを閉じた。この戦場で、私は確信した。世界というキャンバスを塗り替えるには、繊細な筆など不要だ。必要なのは、すべてを焼き払う「炎」であり、すべてをなぎ倒す「鋼鉄」なのだと。


 イープルの初陣。それは、私の人生という作品における、最初の大規模な「下塗り」であった。私は、自分がもはや「普通の人間」ではないことを悟った。私は、死を司る設計者の視点を持ってしまった。泥と血にまみれたフランドルの地で、画家アドルフ・ヒトラーは死に、戦場という名の秩序を信奉する一人の「兵士」が、鋼鉄の皮膚を纏って立ち上がった。

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