オデオン広場の歓喜

 その日、ミュンヘンの空は、私の人生のどの記憶よりも鮮やかな青に染まっていた。


 一九一四年、八月二日。ミュンヘンの中心、オデオン広場は、数万の群衆によって埋め尽くされていた。人々の顔は、夏の強い陽光と、それ以上に激しい感情の昂ぶりによって火照り、その熱気は広場を包む冷厳な石造りの建築物さえも震わせているようだった。


 私は、その混沌とした人混みの隅で、一人静かに立っていた。ウィーンを逃れ、ミュンヘンに辿り着いてからの一年間。私の生活は、相変わらず「何者でもない自分」との戦いだった。絵葉書を描き、建築図面を模写し、わずかな日銭で命を繋ぐ日々。ウィーン時代に比べれば、この街の空気は清潔であり、同胞たちの言葉は私の耳に心地よく響いたが、それでもなお、私の内側にある「設計図」はどこにも出口を見つけられずにいた。私の才能を認めない世界、私を無視して回転を続ける社会。その巨大な停滞に、私は息が詰まりそうになっていたのだ。


 しかし、その静寂は一瞬にして破られた。広場に集まった群衆の視線が、一点に注がれる。バイエルン国王の布告が読み上げられたその瞬間、世界は劇的に、そして暴力的なまでにその「色」を変えた。


「戦争だ!セルビアに、そしてロシアに……戦争が始まったぞ!」


 広場に爆発的な歓喜が沸き起こった。誰かが帽子を高く投げ上げ、見知らぬ者同士が抱き合い、国歌が幾重にも重なって空へと突き抜けていく。それは、平和という名の退屈な日常が、鋼鉄と火薬の旋律によって粉砕された合図だった。


 私は、その熱狂の渦の中心で、思わず膝を突いた。周囲の人々が愛国心という、ある種「健康的な興奮」に身を任せている中で、私の胸に去来していたのは、もっと根源的で、もっと暗く、そしてもっと激しい「安堵」だった。


(……救われた。私は、救われたのだ)


 私は天を仰ぎ、この奇跡をもたらした運命という名の「設計者」に、心からの感謝を捧げた。なぜ、戦争という死の行進を、私は「救い」だと感じたのか。それは、この戦争が始まれば、これまでの私が積み上げてきたすべての失敗、すべての屈辱、そして「落選した画家」という惨めなレッテルが、一瞬にして意味をなさなくなるからだ。社会の秩序は崩壊し、これまでの常識は灰となる。巨大な国家という機関が、個人の卑小な悩みをすべて飲み込み、真っ白な戦場へと塗り替えてくれる。私はもはや、家賃を気にする浮浪者でも、評価されない芸術家でもない。巨大な運命というパレットの一部、すなわち「兵士」という、厳格な規律に基づいた一つの「点」になれるのだ。


 私はその場で立ち上がり、周囲を見渡した。熱狂する群衆の姿が、今、私の目には違って見えていた。これまでは私の視界を汚す「無秩序な不純物」に過ぎなかった人々が、今は一つの目的――「敵への憎悪」と「祖国への献身」という一色に染まろうとしている。これだ。これこそが、私が求めていた「究極の構図」ではないか。複雑で多民族的な混濁を焼き払い、一つの意思、一つの色だけで世界を埋め尽くす。戦争という名の暴力的な芸術。


 私は翌日、迷うことなくバイエルン国王宛に志願書を書いた。私はオーストリア国籍を持つ身であったが、腐敗した多民族国家オーストリアのために戦う気など微塵もなかった。私が守るべきは、この純粋なドイツの血であり、私の魂を肯定してくれるこの鋼鉄の秩序だ。


 数日後、入隊許可が下りたとき、私は初めて「自分の居場所が確定した」という確信を得た。軍服に袖を通す。それは、私の人生というキャンバスにおいて、最初の下塗りが完了した瞬間だった。個人の自由、個人の苦悩、個人の名前。そんな不確かなものはすべて脱ぎ捨て、私は「第一六バイエルン予備歩兵連隊」――通称リスト連隊の一員となった。鏡の中に映る自分。そこには、ウィーンの路地裏で震えていた青年の面影はなかった。短く刈り込まれた髪、固く結ばれた口元、そして何より、一点の曇りもなく「破壊と創造」を見つめる瞳。私は、軍隊という巨大な組織が提供する「絶対的な規律」に、法悦にも似た安らぎを覚えた。朝、起床し、整列し、磨き上げられた銃を手に取る。すべてが規則ルール規則に従って配置され、個人の我儘が介在する余地など一ミリもない。この「完璧な配置」こそが、私が美術アカデミーの門前で、あるいは浮浪者収容所の片隅で、渇望し続けてきた世界の姿だったのだ。


 一九一四年、十月。訓練を終えた私たちは、前線へと向かう列車に乗り込んだ。窓の外では、ミュンヘンの市民たちが花束を投げ、万歳を叫んでいる。兵士たちは皆、英雄になれると信じて笑っていた。だが、私の笑みは、彼らのものとは本質的に異なっていた。


(……描きに行こう。血と硝煙という、新しい絵具を使って)


 列車が西へと走り出す。目的地はフランドル。そこには、これまで人類が経験したことのない、地獄という名の巨大なキャンバスが広がっているはずだ。私は、腰に下げた銃の感触を確かめた。筆を捨て、銃を取る。それが、私にとっての「芸術」の第二幕だった。私は、死を恐れてはいなかった。むしろ、死という絶対的な沈黙こそが、この無秩序な世界に最も美しい静寂(秩序)をもたらすと信じていた。

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