清算のパースペクティブ

 私の世界において、最も許し難い罪は「構図の乱れ」である。一ミリの狂いもなく引かれた線の先に、予期せぬ汚れが混じること。それを放置することは、私自身の存在を否定することと同義だった。


 ラインホルト・ハニッシュ。この数年間、私の絵を街の画商へ運び、パンとスープに変えてきた男。彼は確かに、私という「才能」が餓死しないための実務的な機構として機能していた。しかし、所詮は素材に過ぎない男だった。彼には、私の描く建築画の背後にある崇高な理念も、私が図書館で構築しつつある世界の設計図も、何一つ理解できていなかった。


「アドルフ、今日の売上だ。……景気が悪くてな、これっぽっちにしかならなかったよ」


 収容所の薄暗い談話室。ハニッシュがテーブルに投げ出した数枚の硬貨。その金属音が、私の耳にはひどく濁って聞こえた。私は黙ってその硬貨を見つめる。最近、彼の報告する売値は、私の予測する「市場価格」と明らかに乖離し始めていた。私が寒空の下で指を凍らせ、魂を削って描き上げた『シェーンブルン宮殿』や『国会議事堂』。それらが、たったこれだけのパンにしか変わらないはずがない。


(、、、! )


 脳の奥で、かつてないほど冷徹な思考が走り抜ける。ハニッシュは、私の分け前を着服している。私の「聖域」である作品を、自分の酒代や私利私欲のために切り売りし、その利益を掠め取っているのだ。


「ハニッシュ、もう一度言え。……その絵は、いくらで売れたのだ」


「だから、言った通りだ。……おい、なんだその目は。俺が嘘をついてるとでも言いたいのか? 俺がいなけりゃ、あんたはとっくに野垂れ死んでるんだぞ」


 男の言葉には、恩着せがましい響きが混じっていた。それが私を激昂させた。私を救っているのはお前ではない。私の描く「完璧な線」そのものが、私たちを生かしているのだ。お前はその恩恵に預かる寄生虫に過ぎない。


 私は、自分が設計した世界の中に、ハニッシュという名の「修復不可能な汚れ」が紛れ込んでいるのを感じた。友情? 信頼? そんなものは、無秩序な弱者が寄り添い合うための、不確かな色の混濁に過ぎない。私の人生というキャンバスを完成させるためには、このような「異物」は直ちに拭き取られなければならない。


 一九一〇年、夏。私は迷うことなく、警察へと足を運んだ。


 ハニッシュを詐欺と着服で訴える。それは、周囲の男たちから見れば、唯一の相棒を裏切る狂気の沙汰に映ったことだろう。しかし、私にとっては、これは裏切りではなく「清算」だった。歪んだ線を引き直し、不浄な色を排除する。法の力を使って彼を社会という名の牢獄へ押し戻すことは、私にとって、キャンバスの汚れをナイフで削り取るのと同じ、極めて事務的で、不可欠な作業であった。


 警察の取調室で、私は淡々と、しかし情熱的に彼の罪を並べ立てた。ハニッシュが狼狽し、私を罵倒する声が響く。だが、その罵声さえも、私には勝利の旋律のように聞こえた。私は彼を排除したのではない。彼という「誤った筆致」を、私の人生のパースペクティブから消去したのだ。


 ハニッシュがいなくなった後、私は一人、収容所のベッドに座っていた。明日から絵を売り歩く者はいない。再び空腹が、死の影を伴って襲いかかってくるだろう。だが、私の心はかつてないほどに澄み渡っていた。    一人であること。それは、誰にも自分の構図を乱されないということだ。私は自らの手で、自分の人生のすべてを統制下に置く権利を取り戻したのだ。


 私は、図書館で読んだあの「血の論理」を思い出す。強者は、弱者を踏み台にして立ち上がるのではない。強者は、自分を汚そうとする弱者を「処断」して立ち上がるのだ。ハニッシュを切り捨てたあの日、私は初めて「人を支配する」ことの真理に触れた。それは慈悲ではなく、冷徹な法と意志によって、自分以外の存在を「正しい場所」へ追いやること。あるいは、不要な存在を「虚無」へと追いやること。


 私は、まだ小さな絵葉書を描き続けていた。  だが、その筆を持つ手の震えは止まっていた。私の中の「芸術家」は、この時、完全に「独裁者」という名の皮膚を纏い始めたのだ。


 ウィーンの街は、相変わらず無秩序な喧騒に包まれている。だが、私の目には、その混沌をどのように「掃除」すべきかという明確な図面が見え始めていた。この街に、もはや描くべき余白はない。私は、より巨大で、より純粋な下地を求めていた。国境の向こう側にある、我が同胞たちの、真実のドイツを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る