英雄の幻影と血の論理

 空腹は肉体を蝕むが、退屈は魂を腐らせる。私は、ハニッシュが街の片隅で私の絵を売り歩いている間、公共図書館の隅にある堅い椅子に座り、文字の海に沈むことを選んだ。そこは私にとって、収容所の悪臭も、画商との卑屈な交渉も、冬の街の無秩序な喧騒も届かない、唯一の聖域だった。


 図書館の空気は冷たく、それでいて静謐な秩序に満ちている。私は山積みされた新聞や、古びた歴史書、そして当時ウィーンの街角で溢れかえっていた過激な政治パンフレットを、飢えた獣のように貪り食った。マルクス主義、自由主義、汎ゲルマン主義。そして、人種の優劣を説く擬似科学的な理論。それらは、かつて父が私に強いた退屈な税関の帳簿よりも、遥かに刺激的で、破壊的な色彩に満ちていた。


「……そうか。私の苦しみには、明確な理由があったのだ」


 紙の上で踊る言葉たちは、私の混沌とした感情に、初めて「論理」という名の輪郭を与えてくれた。この世界が醜いのは、私がこうして泥にまみれているのは、決して私の才能が足りないからではない。血が混ざり合い、強者が弱者に跪き、本来あるべき『正しい配置』が崩れているからだ。歴史とは、生存を懸けた人種の闘争であり、その闘争に勝つ者だけが、世界というキャンバスを塗り替える権利を持つのだ。


 私は、自分が美大に落ちたことさえ、この巨大な「歴史の歪み」の一部として正当化し始めていた。私が描けないのではない。この腐り果てた時代そのものが、私の描くべき高潔な美しさを理解する資格を失っているのだ。


 私は、自分の中にあった「挫折した画家」という自己像を、独学で得た歪んだ知識で塗り潰していった。図書館で拾い集めた過激な思想の数々は、私の劣等感を隠すための強固な鎧となり、私の憎悪を正当化するための鋭い剣となった。


 そして、その歪んだ確信を絶対的な熱狂へと変える場所が、宮廷歌劇場の安席――天井桟敷であった。


 数日間、パンを口にしないことがあっても、私はワーグナーのオペラを観るための数クローネだけは死守した。舞台の上でリヒャルト・ワーグナーの旋律が鳴り響く瞬間、私の目の前にある灰色の現実は霧散し、私はもはや、収容所のベッドで咳き込む薄汚れた浮浪者ではなくなっていた。


 特に『リエンツィ』を観る時、私の魂は震えた。護民官リエンツィが、無秩序な民衆を導き、腐敗したローマを浄化し、秩序を取り戻そうとする姿。それは、私が描き損ねたどの建築画よりも巨大で、生命力に満ちた設計図だった。


(いつか、この旋律を現実のものにする。この無秩序なウィーンを、不浄な混濁を、血の通った一つの生命体として、私が描き直すのだ)


 トランペットの咆哮が、私の血管に「選ばれし者の血」を流し込む。舞台の上で繰り広げられる悲劇と再生。それは私にとっての宗教であり、未来の予言でもあった。私は暗闇の中で、見えない指揮棒を振るように指先を動かした。劇場を包み込む万雷の拍手。それがいつか、私個人に向けられる歓声であるかのような錯覚に陥りながら。


 しかし、演奏が終わり、冷たい夜風が吹く路上へ放り出された時、現実という名の醜い色が再び私を襲う。  着飾ったユダヤ人の富豪たちが馬車に乗り込み、笑い声を上げながら去っていく。その馬車の車輪が跳ね上げた泥が、私のボロボロのコートを汚す。かつての私なら、ただその汚れを呪っただろう。だが、今の私には違って見えていた。


 図書館で学んだ「血の論理」と、劇場で得た「英雄の幻影」。この二つが交わった時、私の内側にいた「内気な青年」は、ゆっくりとその息の根を止められた。


 代わりに産声を上げたのは、世界という空間ラウムを、自身の思想という筆で再設計しようとする、名もなき狂信者だった。私はまだ、大衆を前に一言の演説すらしたことがなかった。だが、その瞳にはすでに、この腐敗した都市を焼き払い、真っ白な下地に塗り替えるための「炎の色」が宿っていた。


 私はハニッシュの待つ収容所への道を歩きながら、自分に言い聞かせた。今の私は、ただ潜伏しているだけなのだ。この泥まみれの生活は、偉大なる作品を描き上げる前の「下塗り」に過ぎない。いつか、この私がすべての色を決定する日が来る。


 ウィーンの街に、夜の帳が降りる。光り輝くカフェから漏れるワルツの調べは、私にとって、死にゆく旧世界の末期の吐息のように心地よく聞こえた。

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