境界を越える筆致

 一九一三年の春。ウィーンの街に吹き抜ける風は、もはや私にとって、死に体の帝国の腐臭を運ぶミアズマ毒気に過ぎなかった。


 私は、独身者寮の窮屈な一室で、数少ない荷物をまとめていた。擦り切れた筆、使い古した定規、そして図書館で書き溜めた膨大な「思考の習作(デッサン)」。これらが、私のウィーンにおける五年間という歳月のすべてだった。母の遺産を使い果たし、アカデミーに拒絶され、浮浪者収容所で泥を啜り、画商に自尊心を切り売りした五年間。この街は、私に「何者でもない自分」という屈辱を突きつけ続けた。だが、荷造りをする私の手は、かつてないほどに確信に満ちて震えていた。私はただの一度も、自分が敗北したとは思っていない。


(……この街が、根本から間違っているのだ)


 窓から見えるウィーンの街並みは、相変わらず無秩序で、吐き気がするほど醜悪だった。オーストリア=ハンガリー帝国という、継ぎ接ぎだらけの布のような国家。そこではドイツ人が、スラヴ人が、ユダヤ人が、マジャール人が、それぞれの言語で下劣な主張をぶつけ合い、私の愛する「純粋な秩序」をかき乱している。街ゆく群衆の顔を見るたび、私はそこに「構図を乱す汚点」しか見いだせなかった。この混濁した色彩こそが、私のパースペクティブ(遠近法)を歪ませる元凶なのだ。


 さらに、背後からは不快な足音が迫っていた。オーストリア軍の徴兵令状だ。私は、この「人種の吹き溜まり」を守るために銃を手に取ることなど、死んでも拒絶する。不浄な血液が混じり合った軍隊、その歪んだ制服に袖を通すことは、私の美学に対する、そして私の高貴なる血に対する最大の冒涜であった。私が命を懸けるべきキャンバスは、ここにはない。


 私は、西へと向かう列車の切符を握りしめた。行き先はミュンヘン。バイエルンの王国。真なるドイツの魂が、煤煙に汚されず息づく約束の地だ。そこには、ウィーンのような汚濁はないはずだ。そこには、私の思想という筆を受け入れる、真っ白なキャンバスが広がっているに違いない。


 北駅のホームに立ったとき、私は自分の背後にある巨大な都を冷徹に見上げた。五年前、私は若き希望に胸を膨らませてこの門をくぐった。しかし、今、私はこの街を、呪いとともに捨てる。いや、これは「捨てる」のではない。不出来な下書きを破り捨て、新しい紙を広げるだけの作業だ。


「さらばだ、ウィーン。……お前が私を認めなかったのではない。私が、お前を見限ったのだ」


 列車が重い音を立てて動き出す。窓の外を流れていく景色が、ゆっくりと、しかし確実に「色彩の混濁」を脱ぎ捨てていく。私は座席に深く身を沈め、目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、もはや緻密な建築画ではなかった。それは、より巨大で、より暴力的な、国家という名の「ラウム空間」を再構成する、血塗られた青写真だった。


 図書館の隅で、空腹を忘れて読み耽った「血の論理」。劇場の天井桟敷で、魂の震えとともに刻み込んだ「ワーグナーの旋律」。相棒ハニッシュを警察に売り払い、切り捨てたときに覚えた「冷徹な処断」。そして、この五年間の極貧生活という地獄で培養された、世界への「猛烈な憎悪」。


 それらすべてが、今、私の中で一つの完璧な「設計図」として結晶化しようとしていた。私は、ただの画家として死んだのではない。この境界線を越える瞬間、私は「自らの言葉という筆で、世界を塗り替える指導者」としての第一歩を踏み出したのだ。


 列車が国境を越え、ドイツの土を踏んだとき、窓から流れ込んできた空気は驚くほど澄んでいた。バイエルンの夕焼けは、まるで私の新しい門出を祝うかのように、空を鮮やかな「赤」に染め上げている。その赤は、かつてパレットで見たどんな絵具よりも美しく、強烈で、慈悲がなかった。


「……ここだ。ここが、私の始めるべき場所だ」


 一九一三年、五月。ミュンヘン。名もなき青年アドルフ・ヒトラー。二十四歳。ポケットには相変わらずわずかな金しかなかったが、その瞳には、ヨーロッパ全土を自身の支配下に置き、一千万の人間をチェスの駒のように配置し直そうとする、恐るべき「芸術家」の光が宿っていた。


 ウィーンという重い額縁から解き放たれ、私はついに自由になった。これから始まるのは、もはや小手先のデッサンではない。歴史という名の巨大なキャンバスに、最初の一筆を加えるための準備だ。筆を置くのは、まだ先だ。この歪んだ世界を、私の「正解」で、ただ一つの秩序で埋め尽くすまでは。


 私は、ミュンヘンの駅に降り立ち、固く握りしめた拳をゆっくりと開いた。そこには、未来という名の真っ白な余白が、残酷なほど美しく広がっていた。

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