希望の芽吹き


 闇に包まれた夜が、静かに公園を覆っていた。月明かりが枝葉の隙間を縫い、わずかな光の筋を地上に落とす。その微かな光の下、しゃがみ込んで泣いていた女性が、私の手際のよい動きに驚きと好奇を滲ませた声で問いかけた。 

 「マスターさん、器用だね。こんな場所でお店ができるなんて」 

 彼女は私が差し出した柔らかなハンカチで、赤く腫れた目を拭いながら、組み立てた簡易な椅子に腰を落ち着かせていた。先ほどまでの悲痛な嗚咽は今はもう遠い幻であったかのように、すっかり鎮まってくれたようだ。

 黒い毛並みに月の光を鈍く反射させながら、手元で組み立て式の小さなテーブルを固定させた。首元に締めた藍色のネクタイがわずかな動きに合わせて、はらりと揺れる。 

「慣れておりますからね。小さい手ではございますが、やろうと思えば、何でもできますよ」 

 私はそう言って、自分の掌をぎゅっ、ぎゅっ、として見せた。それを見た彼女も「ふふっ」と、微かに笑ってくれた。だが、その笑顔は、久しく笑うことを忘れていたかのようにどこかぎこちなく、感情を伴わない貼り付けられたようなものだった。まるで笑い方そのものを、深い悲しみの淵に置き忘れてきたかのようにも見えた。 

 20代に見えるが、体に纏う疲労感が相応ではないものを背負っている。目の下に濃く刻まれた隈(くま)と、隠そうとしても隠しきれない肌荒れ、そして涙で崩れ落ちた化粧。そのすべてが、彼女が抱え込んでいる重荷を、漂う憔悴感は計り知れない澱が溜まっていることを示唆していた。

 私にできることと言えば、ほんのひとときでも、彼女が背負うその重荷を解き放って差し上げること。このささやかな空間が、凍てついた心を包み込む温かな毛布のように感じられることを、ただただ願った。

 私はグラスを手に取り、手早く、しかし一片の躊躇もなく、そこに秘めたるものを注ぎ入れた。そして、そっと、彼女の前に差し出した。 

「申し訳ありません。準備に少々お時間を頂戴しますので……まずは、こちらをどうぞ」 

 組み立て式の小さなテーブルの上に置かれた、何の装飾もないグラスは、月明かりを静かにその身に宿し、うっすらと光を放っていた。その淡い輝きを放つ中身へ、彼女はゆっくりと目を凝らした。 

「……お水?」 

 疑問符を浮かべた声には、まだ微かな警戒の色が混じる。 

「はい、お水です。先ほどまで、たくさんの涙を流しておられましたので、乾いてしまった体に潤いを与えて差し上げてください」

 わずかな疑問を顔に残しながらも、彼女はグラスをそっと持ち上げ、ゆっくりと口に流し込んだ。するとその瞬間、彼女の瞳がわずかに見開かれ、驚きが宿る。そして次の瞬間、まるで喉の渇きに耐えきれなかったかのように、一気にグラスを傾け、冷たい水を飲み干した。

「はぁ……冷たくて美味しい。ごくごく飲んじゃった」

 安堵の息がこぼれると共に紡がれたその言葉は、ついさっきまで流していた涙を忘れさせるほど、無邪気で心からの笑顔を彼女の顔に咲かせた。きっと彼女は、本来こんなにも愛らしく、一点の曇りもない笑顔をたたえる人なのだろう。その輝くばかりの笑顔を目の当たりにし、私はひそかに、深い安堵の息をついた。だが、その愛らしい光を蝕むかのように、彼女の内に深く潜む何か。それが、この美しい笑顔を容赦なく奪い去ろうとしている。その何かを、私が何としてでも、彼女の心から引き剥がさねばならないのだ。 

 

 セッティングが終わり、彼女の前に静かに立った私は、いよいよ本題へと入る。

 ゆらゆらと揺れる私の尻尾の先端は、かつて罠にかかった友を救うために自ら切り落としたままで、足にはその時の深い傷跡が、今も生々しく残っている。この傷は私に命の尊さ、そして生きていくことの計り知れない重みを力強く語りかけている。友は私に、命に重さや大きさなど関係ないと教えてくれた。遠い未来には、それが常識だと誰もが言っている。そんな時代が来ることを、私は心から願っている。だからこそ、目の前で打ちひしがれているこの命を、私は救いたい。

 私は彼女の気持ちに寄り添うように、言葉を選んで尋ねた。 

「もしよろしければ、先ほどまで泣いておられた訳をお聞かせくださいませんか。微力ながら、あなたのお話の相手にはなれると思いますので」

 私の言葉に、彼女は一瞬唇を歪ませたが、やがて小さく、決意するように頷いた。そして震える指先でグラスの縁をなぞりながら、その重い胸の内を語り始めた――

 

「……それでさ、私にはセンスがないってさ。見た目もデザイナーらしくないんだって。憧れの仕事についても、それが自分にできるかどうかなんて別だもんね、忘れてたよ」

 彼女は幼い頃から絵を描くことが好きで、誰に教わるでもなく独学で学び、寝食を忘れて技術を磨いてきたそうだ。そしてついに、長年の憧れだったデザイナーという夢を掴み取った。だがようやく辿り着いたその場所で彼女を待っていたのは、夢には微塵も思わなかった、あまりにも厳しく冷酷な現実だった。

「夢が叶ったなんて、ただの勘違いで浮かれていただけなんです。だから、もう……どうでもいいや。もう辞めようかなって、思っちゃって……」

 自嘲するように呟く彼女に、私は静かに語りかけた。

「そうでしたか……。これまで、大変な思いをされてこられたのでしょうね。あれほど涙を流すほどですから、きっと心から強く願っていた夢があったのですね」

 長らく張り詰めていた心の糸がようやく解けたのか、彼女はぎゅっと瞼を閉じた。しかし同時に、やっと巡り合えた理解者への安堵は、大切に抱きしめてきた夢が崩れる現実を否応なく受け入れる、複雑な肯定へと変わる。目尻を伝う熱い涙は喜びの雫でありながら、叶わぬ夢に手を振る時の悲しみにも見えた。音もなく落ちるその一粒は、ひどく冷たく、乾いた心に静かに絶望を広げた。 

「私はさ、仕事にお金とか地位とか色々必要なのは分かるけど、それが一番じゃないんだ。綺麗事かもしれないけど、私はやりたいことがずーっとできて、それで生活できれば別にいいって思ってたんだけどさ。みんなは、それじゃだめだとか、何言ってんのって言ってきて……。それからなんか……楽しくなくなってきたって言うか、何したらいいのか分かんなくなっちゃって……もう、無理かなって……」

 再び頭を抱えるようにしゃがみ込んだ彼女は、魂が抜け落ちたかのような疲れた声でそう話した。その声からは深い諦めと、心の奥底で今にも消え入りそうな、か細い灯火を放っているのが見て取れた。同時に、その大切な火が完全に消えてしまう前に、誰かの手を必死に求めているかのようにも。

「……ご心痛、お察しいたします」

 私は少し間を置いた後

「よろしければ、こちらをどうぞ」

 私は作ったドリンクをすっと差し出した。

 グラスの中で揺れる液体は、鮮やかなオレンジ色で、グラスの底には細かい果肉が宝石のように沈んでいた。

 彼女はグラスを両手に持ち、ゆっくりとドリンクを口に流し込んだ。口の中でしばらく転がし、ゆっくりと飲み込んだ後、「ふぅ」と深く一息ついた。そして小さくも、はっきりと「美味しい」と呟いてくれた。その声は、確かに心が癒されていく音色が宿っていた。

 

 彼女は少しの間、何かを深く考えこむように、目を閉じたまま動かなくなった。まるで、彼女だけ時が止まったかのようだったが、やがてゆっくりと重い瞼を開き、再び口を開いた。

「あたしもそれなりに努力して頑張ってきたつもりだけどさ、全然思うようにいかないんだ。夢どころか、理想の自分にもなれないんだよ」

 彼女はもう一度グラスを傾け、詰まっている何かを流し込むように、今度は勢いよく口の中にドリンクを含んだ。そしてグラスから口を離し、もう何も見たくないという悲しい目をしながら、何かを噛み潰すかのように口元を歪ませた。

「やっぱり……センスがないんだよ」

 まるで、言いたくないことを無理やり絞り出すかのように、彼女は痛々しくつぶやいた。グラスをゆっくり回しながら、中の砕けて少しだけ溶けた氷を、その虚ろな瞳で眺めている。

 

 これまでの彼女を例えるなら……そう、悲しみの青。涙の雨が彼女を濡らしていても、その上にはどこまでも広がる美しい青空が広がっていた。だから彼女は今まで、雨が止むまで必死で藻掻いてこれた。

 でも今の彼女は、まるで全てを否定する内から滲み出る漆黒い霧に囚われ、雨も青空も感じることができず、どこに行けばいいのか何をすれば良いのか分からなくなり、がんじがらめにされているようだった。 

 私はわざと視線をずらし、独り言のように話した。否定も肯定もせず、ただ彼女を縛る霧に真実を照らすように。

「『センス』という言葉は、突き詰めれば、単なる概念に過ぎません。多くの人々が『そうだ』と漠然と共有している、いわば曖昧な『イメージ』のようなものなんです」 

 私の声を聞く彼女のその瞳の奥に、ほんの少しの希望の光と、まだ消えない疑念の淀みが揺れているのが、視界の端で見て取れた。 私は直接心に語りかけるように続けた。

「例えば、絵画を思い浮かべてみてください。世の中には、息をのむほど圧倒され、見た瞬間に誰もが言葉を失うような傑作があります。それとは対照的に、正直上手いとは言えない、首を傾げたくなるような作品もあります。中には、まるで幼い子供が気まぐれに描いたような絵さえも。でもそれが、世界的に有名な画家の手によるものだとしたら、たとえ技巧的には拙く見えても、理解しがたかったりしても、その名前があるだけで計り知れない価値が生まれます。常識や論理を超えて、ただその名が、作品を特別なものにしてしまうのです」

 夜風が柔らかな夜の香りを運んでくる。その風に乗った雲が、月明かりをゆっくりと遮り始めた。

「では、それが全く無名の画家の作品だとしたらどうでしょうか? その価値を見抜ける目を持つ方ならば、相応しい評価をするかもしれません。ですが残念なことに多くの場合はただの奇怪な絵として、見られるのが現実ではないでしょうか。センスとはつまり、『その人だから』と言う言葉が付きまとう、一種の呪詛のようなものだと、私は思います」 

 彼女の方に顔を向けた。手に持ったグラスを見つめる彼女の瞳は、私の言葉をどこか認めながらも、同時に理不尽な世の摂理に葛藤していたように見えた。やがて、その抑えきれない魂の叫びが、震える唇から無意識に零れ落ちた。 

「でも……それってただの結果論じゃない。結局才能のある人だけが華々しく成功して、私たちみたいな凡庸な人間はただ失敗して、周りから馬鹿にされるだけ。世間は成功した人を勝ち組と祭り上げ、私たちのような者には負け組という烙印を押して、それで終わり。そうやって、ずっとずっと笑われながら生きていくのよ」

 悲痛な響きを帯びた言葉が、その場に重くのしかかった。彼女はきっと、本当の自分を隠してしまうほどの、耐え難い時間を過ごして来たのだろう。そんな感情が蓄積され、この悲痛な姿を作り上げてしまったのだろう。 

 夢を追いかける道というのは、ただひたすら努力したり、才能があるだけでは決して叶わない。自分を信じる強い心、助けてくれる人との繋がり、良い巡り合わせ、そして現実的なお金の心配まで、数え上げたらきりがないほど、たくさんのものが複雑に絡み合う。

 私は大きく息を吸い込んだ。そして、俯く彼女を大声で覚醒させるかのように、静かな夜の空気に鋭く響く声で、断言した。

 

「君にそんなことができるはずはない!!」


 彼女は突然のその声に全身を震わせ、壊れるのではないかと思うくらいに座っている椅子を軋ませて、勢いよく体を起こした。彼女の瞳が大きく見開かれ、真っ直ぐに私を捉える。その目に語りかけるように、ゆっくり語りかけた。

「そう、あなたに言ったのは誰ですか? その人に、あなたの可能性を決めつける権利などありません。

 人は周りと比べてしまう生き物ものですから、その考え自体を否定をするつもりはありません。ですがあなたに対して何かを言ってくる人は、あなたのことをそれほど深く理解している人なのでしょうか?」 

 俯く彼女に、すっとドリンクを差し出した。彼女はおもむろにそれを受け取り、しばらくそれを見つめた。

「たしかに、そう……だけどさ」

 私の言葉が、彼女の心の奥深くに触れたのを感じた。しかし、その確信を手繰り寄せることの重みが、同時に彼女の肩にのしかかっているようでもあった。

「才能とは、磨かれるべき原石だと例えられることがあります。その真の輝きを引き出すのは、弛まぬ努力に他なりません。しかしその磨き方一つを誤れば、せっかくの光を傷つけ、あるいは砕かれてしまい、元の輝きを失うことさえあります。それは心ない言葉、過信、あるいは劣悪な環境によって、どれほどの尊い才能の芽が摘まれてしまったか。……その痛みを思うと、私の胸は深く締め付けられます」

 言葉とは、たとえ直接伝えても、必ずしも心の奥底まで届くとは限らない。そんなもどかしさを感じながら、私は彼女の心にそっと寄り添うような言葉を選び、ゆっくりと優しく語りかけた

「同じ原石が二つと存在しないように、同じ才能もまた、二つ存在することはありません。だからこそ、あなただけの才能に合った磨き方を見つけ、丹念に手をかけていかねばなりません。そうすればきっとその宝石は、世界に一つしかない、唯一無二の輝きを放つことが出来るのです」

 私の言葉を受け止めた彼女の表情は、確かに変わっていた。こわばっていた頬の線が和らぎ、心なしか顔色も明るくなったように見える。瞳の奥に宿っていた深い霧が薄れ、微かな光が差したかのようだった。

 彼女の心が少しでも軽くなったのを感じながら、その目を見つめて、最後の言葉を届けた。

「その人たちにしか紡げぬ物語があるように、あなたには、あなただけの物語が確かに存在するのです。あなたはもっと自分を愛して、慈しんであげてください。未来には今の自分よりも、もっと素敵な自分がいるんです」 

 私は少しの間、言葉を紡ぐのをやめ、静かな余韻を残した。

 彼女はグラスを両手で包み込むように持ち、残りのドリンクをゆっくりと、しかし残さず飲み干した。その顔には、先ほどまでの深く沈み込んだ絶望の色は薄れ、代わりにわずかながらも、確かに前を向こうとする光が宿っていた。

「……ありがとう。マスターさん」

 彼女はそう呟き、空になったグラスをそっとテーブルに置いた。その瞳はまだ少し潤んでいるが、先ほどまでの悲痛な輝きではなく、決意のような静かで澄んだ光を帯びている。私はその誠意に応えるように、胸に手を置いて会釈をした

 

 彼女は小さく、しかし心からの笑顔を見せ、椅子からゆっくりと立ち上がった。その足取りは来た時よりもずっとしっかりとしていて、まるで迷いを断ち切ったかのように見えた。見送る私に、彼女は深々と頭を下げた。

「また、会えますか?」

 その言葉に、私は静かに、そして確かな重みをもって頷いた。

「ご縁があれば、きっと。その時はぜひ、あなたの夢の続きを聞かせてください」

 彼女はもう一度微笑むと、月明かりに照らされた道をまっすぐに歩き始めた。その背中が夜の深い闇の中に溶け込んでいくのを見届けた後、私は道具を鞄に片付け始めた。簡易な机、椅子、使われたグラス。全てが元の場所に収まっていく。夜の帳が降りた公園に、再び深い静寂が戻った。 

 私の仕事はいつも人知れず始まり、そして人知れず終わる。限りある人生で、誰かの心にささやかな希望を灯せると思えば、やりがいのある仕事だ。


 私はかばんを背負い、先のない尾をゆらりと振って、その場を後にした。

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一息ついて、いかれませんか 御戸代天真 @Pegasus

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