第5話:なんて『嫁力』なの...。

「……うぅ、もう、死ぬかと思った……」


ほうほうの体で浴室から脱出した私は、乱れた息を整えながら、バスタオル一枚を胸元できつく抑えてリビングへと戻った。


背後からは「ユキ様、もうお上がりですか?」「余の洗体はまだ終わっておらぬぞ!」というリズとミアの騒がしい声が聞こえるが、今の私にはそれを振り返る気力すらない。


濡れた髪から滴る水滴が、上気した私の鎖骨を伝い、豊かな胸の谷間へと吸い込まれていく。


火照った身体に、夜の部屋の空気が心地よい。


だが、リビングの扉を開けた瞬間、私の鼻腔を突き抜けたのは、これまでの人生で嗅いだこともないような「幸福の匂い」だった。


「あ……ユキ殿。風呂上がりか。……っ、毒だな。その姿は」


キッチンの方から現れたのは、女剣聖フタバだった。


彼女はいつも帯びている刀を丁寧に壁に立てかけ、あろうことかフリルのついたエプロンを身に纏っていた。


最強の剣士が、その「神速の指先」で今握っているのは、業物の刀ではなく、一本の菜箸だった。


「フタバ様……これ、あなたがやったの?」


リビングのテーブルを見渡し、私は言葉を失った。


そこには、前世の高級レストランでもお目にかかれないような、完璧な「家庭料理」のフルコースが並んでいた。


香草の香りが鼻をくすぐる、魔獣の赤身ロースト。


黄金色の脂が浮いた、旬の地物野菜のコンソメスープ。


そして、キンキンに冷えたジョッキに注がれた、泡の比率が完璧なビール。


「……あぁ。貴殿に『何かを捧げたい』と考え、辿り着いたのがこれだ。私は今まで、誰かのために刀を振るうことはあっても、誰かのために火を熾したいと思ったことは一度もなかった」


フタバは耳まで真っ赤にして、俯きながら私の前に皿を置いた。


「私は、貴殿に論破されたあの時、初めて『戦い以外で誰かに認められたい』と思った。貴殿に美味しいと言ってほしくて……気づけば市場で最高級の食材を買い込み、魔導コンロの前で格闘していた」


「……初めて、自分の技術を殺し以外に使いたいと思ったのだ。……口に合うかはわからぬが、食べてくれ」


私は半信半疑で、ローストを一切れ口に運んだ。


その瞬間、私の脳内で何かが爆発した。


「……っ!!」


美味い。 肉の繊維一本一本にまで染み込んだ香草の風味。噛むたびに溢れ出す、暴力的なまでの肉汁の旨味。そして、それを包み込むような、驚くほど繊細な味付け。 何より、食べた瞬間に体中に染み渡るような「真心の熱量」が、私の疲れ切った細胞を一つ一つ蘇らせていく。


「何これ……信じられない。フタバ様、あなた……本気なの?」


「……本気だ。私は、貴殿が仕事でどれほど摩耗しているかを知っている。だから……せめて、家に帰った時くらいは、世界で一番贅沢な思いをしてほしかった」


私は震える手で、冷えたジョッキを掴み、一気に煽った。


「ぷはぁぁぁっ……!! 最高……最高すぎるわ、これ!!」


冷たいビールが、温かいフタバの料理と胃の中で完璧なマリアージュを果たす。


独身生活32年。新宿の深夜、コンビニの温めすぎた弁当で空腹を満たしていた夜。


異世界に来て、適当なつまみで一人酒を楽しんでいた夜。


それらが、フタバの「嫁力」という名の業火によって一瞬で焼き払われていく。


「……結婚、か」


不意に、私の口からそんな言葉が漏れた。


自分でも驚くほど、その言葉には実感がこもっていた。


仕事から帰り、誰かが私のために、私の好みを知り尽くした最高の料理を作って待っていてくれる。


その温もり。その安らぎ。 私が「非効率」だと切り捨ててきたそれらが、これほどまでに甘美な毒となって私を侵食するなんて。


「ユキ、そんなに感動したか!? ならば今こそ、余と永遠の誓いを――!」


「ユキ様! 私というデザートを召し上がる準備はできています!」


浴室から飛び出してきた全裸の魔王と騎士団長が、私の感傷を台無しにする。


ミアが股間に「最新型・超振動機能付きの紫の魔力」を練り始め、リズが「主君の足を舐める権利」を求めて床を這ってくる。


「……あ。やっぱり無し。前言撤回!!」


私はジョッキをテーブルに叩きつけた。


温かい飯は最高だ。フタバの献身は、死ぬほど愛おしい。


でも、この変態たちの相手を一生続けるなんて、私の精神が持たない!


「あなたたち! 飯が終わったら一秒以内に帰りなさい! 私はまだ、独身を卒業するつもりはないんだからね!」


私の絶叫が、夜の街へと虚しく響き渡る。しかし、その胃袋は、既に剣聖の「愛」に完璧に屈服していた。


私の最強に厄介な、そして最高に愛しい「家政婦(魔王たち)」との共同生活は、まだ終わる気配を見せなかった。



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