第3話:『出待ち』するな。
「……ああ、胃が痛い。物理的に、内側からキリキリと削られている感覚がする」
翌朝。私は、かつてこれほどまでに重い瞼を押し上げたことがあっただろうか。
視界に映るのは、昨夜の惨劇の跡だ。魔法で応急処置され、周囲の壁紙と絶望的に色が合っていない我が家のリビング。そして、その床やソファで、あろうことか「誰がユキの隣で寝るか」を巡って夜通し討論し、そのまま力尽きて眠りこけている、世界最強の女三人の寝顔。
前世で、年収2000万の傲慢男と、家事育児全振りを要求する夢見がち女の仲裁を10時間続けた時ですら、ここまで魂が摩耗することはなかった。
32年間の平穏が、たった一夜で粉々に粉砕されたのだ。
しかも、その破片はすべて、私の処女と自由という犠牲の上に積み上がっている。
私は彼女たちが目を覚ます前に、文字通り泥棒のような足取りで這い出し、中古住宅を後にした。
職場である「婚活ギルド」に辿り着き、デスクに座ってようやく一息つく。
「おはようございます、ユキさん。……あの、目の下のクマ、すごいことになってますよ? ゾンビかと思いました」
受付嬢のリサが引き気味に声をかけてくるが、私はそれを無視してプロの仮面を被った。
「いい、リサ。私は今日、石になるわ。どんな理不尽な相談が来ようと、鉄の意志で論破し、定時になったら音速で帰る。それが私の聖域を守る唯一の手段よ」
だが、現実は非情だった。 ギルドの重厚な扉が開くたび、私の心臓は嫌な予感で跳ね上がる。そして案の定、昨夜の「戦犯」たちが次々と相談所に現れた。
最初に来たのは、近衛騎士団長のリズだ。
彼女は昨日までの凛々しい鎧姿をどこへやったのか、胸元が大きく開いた、騎士服というよりは「誘惑用の礼装」に近い格好で現れた。その手には、昨日私がシュレッダーにかけたはずの婚姻届が、さらに束になって握られている。
「ユキ様! 私、一晩中考えて悟りました。姫様への想いは、ただの『過去の記憶』に過ぎなかったのです! 今の私の脳内は、ユキ様への渇望でパンパンに膨れ上がっています!」
「リズ、その比喩はやめなさい。あと、その格好は何? 騎士団の品位はどうしたのよ」
「主君の盾となり、主君に踏まれるための『正装』です! さあ、この新しい婚姻届(王国公式・耐水仕様)にサインを! さもなくば、私は今ここで脱ぎます!」
「脱ぐな!! ここをどこだと思ってるのよ! いい、リズ。あなたのそれは愛じゃない。ただの依存先のすり替えよ。一人の女として自立できないから、誰かに仕えることで自分を肯定したいだけ。そんな重すぎる忠誠心という名の暴力、私は受け取らないわ。帰りなさい!」
リズを力ずくで(受付のリサの手を借りて)押し出し、次に現れたのは魔王ミアだった。
彼女は禍々しい紫のオーラを全身から放ち、昨夜よりも明らかに「改良」された何かを股間に予感させるような、危険な笑みを浮かべていた。
「ユキよ。昨夜の『魔力製パーツ』だが、あれから魔界の工学技術を応用して構造を刷新した。貴様の身体の構造、昨夜の混戦でだいたい把握したからな……。多角的な刺激と、魔力によるバイブレーション機能を搭載して、さらには二枝にする『強化パーツ』を――」
「不潔! 不潔よ、このエロ魔王!!」 私はデスクを叩いて立ち上がった。
「魔王様、あなたは自分の立場を理解しているの? 和平が成立したばかりのこの世界で、魔王が人間の婚活アドバイザーをセクハラで訴えられたら、国際問題になるわよ! その溢れんばかりの執念と魔力を、もっと魔界のGDP向上や福祉に使いなさい! 帰れ、この性欲モンスター!」
ミアは「ふん、照れるな。夜になれば分かることだ」と不敵な言葉を残して去っていった。
最後に現れたのは、女剣聖フタバだ。
彼女は他の二人とは違い、抜身の刀のような冷徹さを消し、どこか捨てられた仔犬のような、湿った瞳で私を見つめてきた。
「……ユキ殿。私は昨日、貴殿に論破され、気づいたのだ。私は自分を屈服させる男など探してはいなかった。私は……ただ、貴殿に何かを『捧げたい』のだ。この胸の疼き、この……誰かを愛でたいという感情。私は、どうすればいい?」
フタバは、かつて戦場で数多の敵を切り伏せてきたその手で、私に小さな包みを差し出してきた。
「これは……?」
「……試作だ。貴殿が空腹だろうと思ってな」
包みを開けると、中には不格好ながらも丁寧に握られたおにぎりがあった。
「……フタバ様。あなたは最強の剣聖でしょ。こんなことに時間を使わないで、剣の腕を磨きなさい。私に尽くしたって、実績にはならないわよ」
「実績などいらぬ。私は、貴殿に食べてもらいたい。それだけなのだ」
……厄介だ。リズやミアのような直球の変態よりも、こういう「純粋な重愛」に目覚めたタイプが一番、私の独身主義の根幹を揺さぶってくる。
結局、定時まで私の精神は削られ続け、時計の針が17時を指した瞬間に私は逃げるように婚活ギルドを飛び出した。
裏口から路地裏を抜け、必死に気配を殺して自宅へと急ぐ。
だが、表通りに出た瞬間、私は自分の視力を疑った。
ギルドの正門から私の自宅へと続く一本道。その途中のアイスクリーム屋の前で、魔王、女剣聖、騎士団長の三人が、並んで腰を下ろしていた。
彼女たちは、あろうことか仲良く同じ色の「バニラアイス」を舐めながら、こちらの様子を伺っていたのだ。
「あ、ユキ殿。お疲れ様。このバニラ、濃厚で美味いぞ。貴殿の分も買ってある」
フタバが当然のように立ち上がり、溶けかけたアイスを私に差し出す。
「……何してんのよ、あんたたち。仕事は? 義務は? プライドはないの?」
「主君の帰路を護衛し、そのまま主君の寝室までお供するのが騎士の誉れです」
「ユキ、今夜は余が開発した新術式の『夜のテクニック』を――」
「家までついてくる気!? 絶対ダメだからね! 今日こそは鍵を魔導ロックで二重に……!」
「無駄ですよユキ様。私たちが協力すれば、この世に開かない扉はありません」
リズが爽やかな笑顔で言い放つ。
私の絶叫は、夕暮れの街に空しく響いた。
結局、32歳までの全貯金を注ぎ込んだ中古マイホームには、昨日と同じ三人の影が、もはや家族のような顔をして吸い込まれていった。
私の、私の穏やかな一人酒の時間は、一体どこへ消えてしまったのだろうか。
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