第24話 確約された終焉

一九四三年、七月八日。

 

 

 クルスクの空は、ねっとりと粘りつくような血の色に染まっていた。

 

 

 地平線を縁取る紅蓮の光は、まるで大地が流した血が空にまで溢れ出したかのようだ。

 

 

 俺は、四号戦車のフェンダーに腰を下ろし、感覚の消えかけた自分の指先をじっと見つめていた。

 

 

 爪の間には、真っ黒なオイルと、剥がれ落ちた鉄錆(てつさび)が執拗に食い込んでいる。

 

 

 昨夜の死闘と、それに続く徹夜の修理。

 

 

 満足な補給は、結局最後まで届かなかった。

 

 

 届いたのは、気化しきれず鼻を突く低質の燃料が数缶と、インクの匂いさえ乾いていない「前進命令」だけだ。

 

 

「……おい、野郎ども。準備しろ。……また地獄の続きだそうだ」

 

 

 ベルント曹長が、ひび割れた唇に煙草を挟みながら、乾いた音でハッチを叩いた。

 

 

 ルディは、充血した目で主砲の照準器を丁寧に拭い続けている。

 

 

 ハンスは、硝煙で焼け付いた喉を水筒の僅かな水で潤しながら、愛銃の予備銃身を撫でていた。

 

 

 彼らはまだ、自分たちが「歴史」という名の巨大な車輪に踏み潰されようとしていることに気づいていない。

 

 

 この地平線の先には、ソ連軍が築き上げた、幾重にも重なる絶望の防衛線が口を開けて待っている。

 

 

 そして数日後には、西の大国がシチリアに上陸し、この攻勢そのものが打ち切られる。

 

 

 俺だけが、その残酷な結末を、現代の教科書で読んだ確定事項として知っている。

 

 

(……みんな、死ぬんだ。……このままだと、俺たちの『軍馬』も、ここで鉄屑になる)

 

 

 俺は、重たい体を這わせて装填手席へと滑り込んだ。

 

 

 暗い戦闘室の中に、僅かに差し込む朝焼けの光。

 

 

 それが、ラックに並んだ徹甲弾(Pzgr39)の鈍い輝きを不気味に照らし出す。

 

 

 絶望が、冷たい泥のように俺の心の中に溜まっていく。

 

 

 だがその時、隣の席に座るルディが、ふと俺の横顔を覗き込んだ。

 

 

「ステファン。……手が震えているぞ」

 

 

「……え?」

 

 

「無理もない。……だが、安心しろ。お前の装填速度がコンマ一秒でも速ければ、俺が先に敵を地獄へ送ってやる」

 

 

 そう言って、ルディは煤(すす)に汚れた顔で、誇らしげに口角を上げた。

 

 

 その刹那、俺の脳裏をよぎったのは、現代で愛車のデリカミニを洗車していた時の、あの何気ない満足感だった。

 

 

(……歴史がどうだろうと、関係ない。……俺は、この『九〇一号車』を、歴史のゴミ捨て場にはさせない)

 

 

 俺がこの世界に飛ばされた理由。

 

 

 それは、俺の目の前にいる、この勇敢で、オイル臭い戦友たちを、五人全員で生還させるためだ。

 

 

「……ルディ。今日中に主砲の予備部品が必要になるかもしれません。……工具箱を、一番上に置いておきます」

 

 

 俺は、震える手で重いレンチを握り直し、力強く言い放った。

 

 

 たとえ歴史が俺たちを見捨てても、俺の記憶にある「未来の断片」が、俺たちの盾になる。

 

 

 ――ギュルルルルッ!!

 

 

 マイバッハ・エンジンが野獣の咆哮を上げ、車体が激しく震え始める。

 

 

 俺はハッチを力任せに閉じ、完全な暗闇となった戦闘室の中で、一発の砲弾を抱きしめた。

 

 

 敗北への秒読みを背景に、俺だけの、たった一つの命を守る戦いが始まった。

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