第23話 歴史の断崖
俺は、四号戦車の冷たい腹の下に潜り込んでいた。
ジャッキで無理やり持ち上げた車体は、泥に沈もうとする重力に抗って、時折ミシリと不吉な音を立てる。
顔の上に滴り落ちる黒いオイル。
それを拭う暇もなく、俺は新しいハブボルトを真っ暗なネジ穴に手探りで合わせていた。
「……よし、噛んだ」
レンチを回す。
金属同士が擦れる嫌な感触が、腕を通じて脳に伝わる。
その時、ふと、ベルント曹長がさっき漏らした言葉が頭の中でリフレインした。
『ソ連軍の防御陣地は、俺たちの予想を遥かに超えていた』
その瞬間、俺の動きが止まった。
脳の奥底に眠っていた、現代日本での「記憶」が、濁流のように溢れ出してきた。
(……待てよ。……クルスク、一九四三年七月。……史上最大の戦車戦)
俺は、暗い車体の下で目を見開いた。
(思い出した。……そうだ。ドイツ軍は、ここで負けるんだ)
歴史の教科書や、ネットのミリタリーサイトで眺めていた、あの結果。
ソ連軍はこの日のために、何重にも重なる「要塞化された防御線」を築いていた。
俺たちがどれだけ敵を倒しても、その背後にはさらに強固な壁があり、さらに膨大な予備兵力が控えている。
そして――この数日後、連合軍がシチリアに上陸し、この攻勢(ツィタデレ作戦)は中止に追い込まれるはずだ。
「……ははっ、嘘だろ」
乾いた笑いが漏れた。
俺たちは今、勝つために命を削っている。
ルディは目を充血させ、ハンスは硝煙で喉を焼き、ベルントは責任感で押し潰されそうになっている。
それなのに、この戦いの結末は、俺が現代でポテトチップスをかじりながらスマホを眺めていた時には、すでに「確定」していたのだ。
どれだけ必死にボルトを締めても、歴史という名の巨大なプレス機が、俺たちを押し潰しに来る。
「……ステファン! 何をしてる、手が止まってるぞ!」
ベルント曹長の声に、俺はビクリと肩を揺らした。
泥まみれの顔を上げると、月明かりに照らされた曹長の顔が、ひどく老け込んで見えた。
「……すみません。今、締めます」
俺は再び、重いレンチに力を込めた。
絶望が、冷たい泥と一緒に襟元から入り込んでくる。
それでも、俺には言えなかった。
『曹長、俺たちはもう負けてるんですよ』なんて、死んでも言えるはずがなかった。
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