第17話 鋼鉄の爪と、泥の牙

――カサリ。

 

 その小さな音は、俺の生存本能を激しく叩き起こした。

 

 指先が、恐怖で白く強張(こわば)る。

 

 暗闇に目を凝らすと、夏草の向こう側に、確かに三つの「人間の影」が揺れていた。

 

 彼らが手にしているのは、棒付き手榴弾を束ねたものか、あるいは。

 

(……やられるッ!)

 

 俺のすぐ足元には、ハッチから持ち出した『MP40』短機関銃がある。

 

 だが、手を伸ばすには遠すぎる。

 

 そして何より、銃声を上げれば、周囲に潜むすべてのソ連兵に俺たちの位置を教えることになる。

 

 その瞬間。

 

 俺の両手は、無意識に「目の前の重い物体」を掴んでいた。

 

「……おらぁッ!!」

 

 俺は、今しがたハブから取り外したばかりの『二十キロの鉄塊』――ボロボロに裂けた三番転輪を、影に向かって全力で投げつけた。

 

 ゴッ!!

 

 鈍い打撃音と共に、一人の影が崩れ落ちる。

 

 平和な日本のガレージなら、慎重に扱うべき精密な部品だ。

 

 だが今は、こいつが俺の命を繋ぐ唯一の武器だった。

 

「敵襲だぁッ!! 左舷直下!!」

 

 俺の叫び声と同時に、車体の上から鋭い銃声が響いた。

 

 ――パン、パン、パンッ!!

 

 ルディが愛用の『ルガーP08』を、身を乗り出して連射している。

 

 その閃光が、闇に紛れていた残りのソ連兵の顔を一瞬だけ白く照らし出した。

 

 彼らは驚愕し、持っていた火炎瓶を地面に落とした。

 

 ボォォッ!!

 

 立ち上がる炎。

 

 その光を背に、俺は泥を蹴って『MP40』をひったくった。

 

 安全装置を外す暇もない。

 

 ボルトを引き、草むらの影に向かって引き金を引き絞った。

 

 ――ダダダダダダダッ!!

 

 短機関銃の激しい反動が、肩を通じて俺の脳を揺らす。

 

 火炎瓶の炎が戦車を照らし出す中、俺は夢中で撃ち続けた。

 

 デリカミニの洗車をしていたあの穏やかな日常は、もう遠い銀河の彼方だった。

 

「ステファン、中に入れ! 早くしろッ!!」

 

 ベルント曹長がハッチから身を乗り出し、俺の襟首を掴んで強引に引き上げる。

 

 俺はMP40を抱えたまま、這うようにして戦闘室へ転がり込んだ。

 

 直後、ガンッ! という鈍い衝撃。

 

 敵の投げた手榴弾が、四号戦車の正面装甲に当たって弾け飛ぶ音がした。

 

 ――ズドォォォォン!!

 

 爆風がハッチから吹き込み、耳鳴りが世界を支配する。

 

「ハンス、機銃を撃て! 見えなくてもいい、周囲の草むらを掃射しろッ!!」

 

 ベルントの叫びに応え、車体前方のMG34機関銃が猛り狂った。

 

 暗闇に向かって、赤い曳光弾が等間隔で吸い込まれていく。

 

 俺は戦闘室の床にへたり込み、硝煙とガソリンの臭いの中で、激しく震える自分の手を見つめた。

 

(……死ぬかと思った。……本当に、死ぬかと思った……)

 

 だが、戦車兵(俺たち)には、震えている時間さえも残されてはいない。

 

「ステファン。……無事か」

 

 暗闇の中で、ルディが俺の肩に手を置いた。

 

「……はい。……なんとか」

 

「そうか。……なら急いで次の弾を準備しろ。銃声で、連中の本隊が寄ってくるぞ」

 

 ルディの声は、昨日よりもさらに鋭く、そして冷徹だった。

 

 俺はふらつく足取りで立ち上がり、再び重い砲弾の感触をその手に確かめた。

 

 クルスクの夜は、まだ明ける気配さえ見せていなかった。

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