第16話 平原の吸血鬼
太陽が地平線の彼方へと沈んでも。
本当の意味での休息が訪れることはなかった。
俺たちの四号戦車は、昼間に奪い取ったソ連軍の第一防衛線をわずかに越えた、名もなき窪地でその巨体を休めていた。
後方の安全な陣地へ戻ることなど許されない。
燃料の節約という現実的な理由もあるが、何よりここを離れれば、夜の闇に紛れてソ連兵が戻ってくるからだ。
せっかく切り開いた道を、再び地雷の海に変えさせてなるものか。
「……エンジン停止。ハンス、無線以外は電源を落とせ」
ベルント曹長の低い声が、静まり返った車内に重苦しく響く。
「……今夜はここで寝るぞ。各員、交代で監視だ」
エンジンの咆哮が消えると、戦闘室の温度が急速に奪われていくのが肌で分かった。
代わりに立ち上るのは、逃げ場のない鉄の箱特有の匂いだ。
漏れ出したガソリンの甘く鋭い気化ガス。
熱せられたオイルの混じった臭い。
そして、俺たち自身の乾いた汗。
だが、俺にはまだ、眠る前に果たさなければならない義務があった。
俺は狭い装填手ハッチのロックを静かに外し、音を立てないようにゆっくりと車外へ這い出した。
外の空気は驚くほど冷たく、そして……重たい鉄と火薬の匂いがした。
周囲に点在するT-34の残骸が、断末魔のようにパチパチと乾いた音を立て、闇の中に赤黒い残り火を散らしている。
俺は予備の転輪とジャッキを抱え、泥にまみれた車体左側へと回り込んだ。
(……今夜中に、あの三番転輪を換えておかないと)
明日の最初の旋回で、ハブが砕ける。それだけは避けたかった。
平和な日本のガレージなら、作業灯を煌々と照らして愛車を磨ける時間だ。
だがここでは、ライトの光一つが敵の狙撃兵を呼び寄せる死の合図になる。
俺は月明かりだけを頼りに、泥だらけの指先でリーフスプリングの付け根を探り、ジャッキの頭を噛ませた。
キィ、キィ……。
冷えた金属が軋む微かな音だけが、静寂の草原に広がっていく。
巨大なレンチをかけ、全体重を乗せてボルトを緩める。
ボロボロに裂けた三番転輪を取り外す。
約二十キロの鉄の塊は、疲労しきった俺の腕には、まるで墓石のような重さに感じられた。
その時だった。
――カサリ。
風が夏草を揺らす音ではない。
もっと重く、湿った何かが地面を這う音。
数メートル先。
俺たちの四号戦車が踏み倒した草むらの影で、不自然な動きがあった。
(……味方の哨兵か? いや、ルディたちは車体の上で監視をしているはずだ)
位置が低すぎる。
俺は転輪を抱えたまま動きを止め、呼吸さえも止めて耳を澄ませた。
――シャッ……、シャッ……。
音は確実に近づいてくる。
かつてデリカミニを洗車している時、背後に誰かが立った時に感じた、あの肌が泡立つような予感。
だが、今そこにいるのは、穏やかな隣人ではない。
月の光が雲に遮られ、一瞬、世界が深い闇に包まれた。
その直後。
草を分ける音と共に、低い姿勢で忍び寄る数人の「影」が、俺の網膜に焼き付いた。
ソ連軍の歩兵だ。
彼らの手には、戦車を無力化するための対戦車手榴弾か、あるいは「軍馬」の心臓部を焼き払うための火炎瓶が握られているはずだ。
俺のすぐ足元には、ハッチから持ち出した『MP40』短機関銃が置いてある。
だが、指先が凍りついたように動かない。
装甲板の内側にいれば「無敵」だった俺たちが。
ハッチを一歩出た瞬間、ただの「柔らかい肉の標的」に成り下がる。
俺の心臓の鼓動が、まるで全開のエンジンのように。
この静まり返った戦場に大きく、あまりにも大きく響き渡っていた。
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